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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#note

わたしたちは人生に意味を見いだすことを求めている

今日もV・Eフランクルについてかこうと思う。 以下に示すのは、フランクルの言う人間の根本意思の3つです。 フランクルは、快楽への意思を生理的欲求年、力への意思を社会的欲求、自分の提唱する欲求を実存的欲求とした。 誰もが皆、自分の人生に何らかの意味を求めている。しかし、その意味の充足がなされないとき、このフロイトとアドラーのそれぞれの欲求が生じてくるとそうフランクルは説明している。 まさに、その通りだなと彼の本を読んでいて深くうなずけた。 自分の周りもこのフランクルの言

ティ―ル(進化型)と肉体に囚われた魂

これは、ティール組織という本の中に出てくる一文です。 自分が埋没している世界、環境から自己を切り離すとは?わたしたちは皆、自分の世界の中に生きている存在です。何を決めるにも、判断するにも、その全ては、この自分の肉体を通した感覚世界によって決定されています。 自分が何かに触れたり、感じたり、頭を使って考えたり、全て、私たちはこの自分の肉体を通して外の世界にあるものを知覚しているという事になります。 つまり、この肉体というものが存在しなければ、私たちは何も認識することも、知

未来を予見し、今を構築する力を。

これからは、しっかりと色々な事を考えて行動しないと、生きていけなくなる。適当に、その場限りの誤魔化しで生きていけたのはこれまでの時代。これからは、何も誤魔化す事は出来ない。嘘をつく事も、隠し事をする事も、自分を偽る事も出来ない。他人を欺く事も、自分に嘘をつく事もその全てが罪になる。そんな時代が来る。 全くのクリアーな人間しかこれからは、生きていけない。今の内に自分の心の中にあるものを全てさらけだし、その全てとしっかりと対峙し、それなりに自分の持っている問題を解消しておかない

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

創作という名の自己解放

自分の好きな事をしていると、いつからかそれが自分の重荷になって気づいてみたら、その重荷で自分が右にも左にも身動きが取れなくなっている事がある。 これ好きだなーと思ってやっていた事も、気づいてみるとそれが自分にとっての苦しみになってしまっている事が私には多々あった。楽しくて、それが好きでやっているはずなんだけど、いつしかそれが自分の中で嫌いになっていく。そのものに近づこうとすると、そのものは私から離れていく。そのものが私に近づいてくると、私はそのものから逃げたくなる。こんな事

外部との比較、区別によってもたらされる曖昧な定義。

人間ってのは皆、自分てものをこういうものだとそれぞれに定義している。他のものと区別して、自分というものはこういものだ!と定義している。この自分をこういうものだと他と区別し、そして定義させているその全てがもし何もなかったら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するんだろう? 私たち人間というのは、自分の外にある何かと自分を比較して、自分というものをこういうものだと定義する。つまり、自分の外に何か自分と比較するものがあるからこそ、そのものと自分を比較して、自分とはこういう

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは思考しているのではなく、ただ目の前の現象に反応しているだけ

私たちは、毎日何かを一生懸命考えている様に思えるが、でも、実際には意外に何も考えていなかったりする。 考えたり、思考した気になっているだけで、意外に私たちは何も考えていない。考えた、思考したってことに満足して、ただその行為している自分に満足しているだけで、頭の中は特に何も考えてはいない。 私たちは、ただ毎日自分の目の前に起こる色々なものから刺激を受け、ただそれに反応しているだけ。私たちはただ反応しているだけで、思考している訳ではない。 ある対象に対して、反応を起こしてい

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

私たちは死ぬために生きている

人間ってのは、とても不思議なもので、死に向かって私たちは毎日を生きている。エントロピーが増大するにつれて、私たちの中に内在する光はその強度を弱めていく。 生きるっていうのは、この心の中に灯った光がある時だとすると、私たちは、毎日少しずつこの自分の中にある光を失っている訳だから、生きながらにして、私たちは死に向かっているという事になる。 私たち人間は、毎日少しずつ自分ってものを失っていく。柔軟だった自分もどんどんと硬化してその中にあるべきはずのエネルギーは、自分でも気づかぬ

食っても食っても腹にたまらない幸福感

私たちは、毎日幸福という奴を貪り食っている。この幸福を貪り食うために、毎日必死に働いている。 幸福感、それが欲しいから、私たちは毎日汗水たらして働く。そしてその働いた報酬としてお金をもらい、そのお金で幸福感というものを買って自分を満たしたつもりになっている。 どれだけ働いても、私たちは、この腹が一杯にならない。沢山働いて、多くのお金を手にして、そのお金を持って、幸福感ってやつを多量に食らう。でも、どれだけ、その幸福感というものを食べても、すぐに又その幸福感ってやつをこの腹

我を制し、人生を勝ち取れ。

生きるってそんなに難しい事じゃない。 本当はもっと簡単なんだよな。 お腹が空いたら食べる。 眠くなったら寝る。 甘えたくなったら甘える。 辛くなったら泣く。 たったそれだけの事がいかに難しい事か。 我が入ると、この自然が突然難しくなる。 我とは、私たちをややこしいものにする。 人生とは、この我との長い戦いだ。 この我を制する事が出来れば、私たちはこの人生に完全に勝利する事が出来るのかも知れない。 我とは、大人になるにつれて強くなる。 だからこそ、子供に

人格変容を伴う癒しという強烈な体験

私たち人間は日々、癒されたいと思っている。自分の中にある苦しみや、悲しみを和らげたいと思っている。だから、色々な所へ出かけて行ったり、色々な人と出会ったりして、そこで私たちは自分の心を癒そうとしている。 私たち人間というのは、自分の中にある苦しみや、悲しみ、これを完全に断とうとはしない。ほんの少しでも、癒されれば、自分の中にあるものが緩和されればそれでいいくらいにしか思っていない。 だから、一時的な癒しを求めてあちこちをさまよう。そして、一時的な満足で自分が癒されたとそう

お金による幸福か?それとも人間としての幸福か?

お金によってもたらされる喜びと、人間としての喜びとは全く別のものなんじゃないかだろうか? お金によって作り出される幸せではなく、人間として創り出す喜び、これを私たちは、この人生に於いて追及していくべきなのではないかと思う。 お金によってもたらされる喜びは一時的なものにすぎず、自分の人生を永遠に保障してくれるものではない。 私たちは、自分の人生を永遠に保障してくれるものを見つけるべき。 お金は真の喜びを与えてはくれない。むしろ、お金は私たちから人生を搾取する。 私たち