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森高千里とユリイカ男性アイドル特集


「私がオバさんになっても」じゃない森高千里を知る

フォロワーさんに森高千里さんをおすすめしてもらい、PVを見ていた。
まずひとつめに見た『気分爽快』に衝撃を受ける。友達と同じ人を好きになってしまい、いつのまにか友達が彼と両思いだった!というシチュエーションのようなのだけど、

やったね おめでとう いよいよあいつとデートか
まったく やるわね 私の知らないうちに

飲もう 今夜はとことん付き合うわよ
私もさ 好きだったんだから

こんな好感度高く返せることある??

友達の幸せを明るく祝福する森高さんが尊い。
80年代少女漫画のヒロインみたい。かわゆい。


セーラーマーズみのある森高さんが「勉強は出来るうちにしておいたほうがいいわ」と言ってくれる『勉強の歌』もじわじわくる。


そして(いまのところ)一番好きだった『臭いものには蓋をしろ!!』。
かっこいいいい!

冒頭、突然知らないおじさんに「いいか ロックン・ロールを知らなけりゃ もぐりといわれるぜ オレは10回ストーンズ見にいったゼ」と謎のマウントを取られるんだけど、

話したいのはわかるけど おじさん
昔話は苦手 本でも書いたらおじさん

腰をフリフリ歌って踊れば みんな忘れちゃうわ
理屈ばかりじゃお腹が出るわよ 誰かみたいに
私もぐりでいいのよ 好きにするわ

と煽りながら軽快に歌って踊る森高さんの大勝利。
最高。森高さんこそロックンロールじゃん......。


PVがポップでかわいい「ザ・ミーハー」

お嬢様じゃないの私 ただのミーハー!

全部ご本人が作詞しているんだよ。すごいなあ。


ユリイカ「日本の男性アイドル」特集を読む

最近になってジャニーズに落ち、途方に暮れている。ので、とりあえず本を読んでいくことにした。
いまわたしが大学生だったら、「推すとは?」「ドル誌とは?」「アイドルへのまなざしとは?」みたいなことをやりたかったなーー。
大学時代は「少女とは?」「少女小説、少女雑誌とは?」みたいなことをずっと考えていた。いずれも卒論までいってないし全部忘れた。でも楽しかったなー。またやりたいね。

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(っていうかなんでユリイカは紙媒体より電子書籍の方が高いの? なぞ。)

以下、ほえ〜と思ったところのメモ(全然まとまってないので興味ない人は飛ばしてね!)↓

◉「戦後日本のかっこかわいさを讃えてージャニ系と時代」千葉雅也

もともと見た目で判断されていたのは女性であり 、男性は見た目とは関係なく実質で判断されるものだ 、というのが従来の非対称性でした 。男性の方が女性よりも優位にあるという家父長制にはそのようなルッキズムの体制があったことを改めて指摘しなければなりません 。

男性もまた女性のようにまなざしを受け 、それを気にする存在としての受動的なあり方になっていく 、という変化を主導したのはジャニーズだったのではないか

結局わたしは男性ではないので肌感としてはわからないのだけどおもしろい指摘だなあ。
そしてかつて、女性側は男性に目をやること自体禁止されていたわけで(だからこその宝塚だよね)。それがどのように解除されていったのか、が気になる。

◉「男性アイドル雑誌の地政学」辻泉

同じようなアイドル誌が乱立していることについて

「かつてボードリヤールが喝破したように ( B a u d r i l l a r d 1 9 7 0 =一九九五 ) 、消費がコミュニケ ーションであるならば 、モノはそれ自体の機能的な価値においてというよりも 、コミュニケ ーションの可能性において 、いわば記号的に消費されることになる 。そして 、そのためには 、共通点と相違点とをもった 、記号の体系の存在が重要となる 。発売日や判型が同じで共通点を持ちつつ 、そのコンセプトにおいて微妙に異なった複数の競合雑誌は 、ファンたちにとって 、 「自分は 「〇〇派 」だけど 、あなたは 「 × ×派 」ね 」といったコミュニケ ーションを可能にしてくれるのである 。そのように 、コミュニケ ーションとしての消費においては 、同調志向と差異化志向が同時に満たされることが重要であり 、 「人と同じでありつつ 、少し違っている 」ことがコミュニケ ーションを広げるのである 。

なるほどー(文系学生だったのにボードリヤールよく知らないの恥ずかしいな)。これ、ジャニーズ自体、アイドルという文化自体にも言えるよね。「ジャニーズが好きだけど担当が違う」とか、「坂道が好きだけど乃木坂派、欅坂派」みたいにちょっとずれた人と話すの、とても楽しい。
しかしアイドル雑誌で「わたしMyojo派!」みたいなこだわりのある人っているんだろうか。わたし個人としては推しがいい感じに載っているのであれば雑誌の種類は気にせず買ってしまう。

◉「新緑のアクアリウム」 柴田英里

「アイドルを 「もうひとりの家族 」(中略)と位置づけながらも 、 「女としての自分を元気にしてくれる 、女性として活性化してくれる 」 「最も身近な異性の夫から得られないものを与えてくれる存在である 」と説明する白河の言葉には 、男性アイドルの性的身体への欲望と 、それを隠蔽しようとする意識が見え隠れしている 。」

現代社会ではまだまだ女性が性を語ることは抑圧されており 、また 、家父長制的な社会においては 、女性が欲望を隠蔽することにはインセンティブがある 。ゆえに彼女たちは少年の身体の持つエロスを語れない ・語らないのだろうか 。

うーーん......なるほどね(女性側としては読んでいて痛い)。
わたしたちは彼らに対して「かわいい!」と言ってしまいがちだけど、それは免罪符なのかなぁ。(とはいえわたしはわりと自分のSexyZoneへの目線、罪深いな......。という自覚があります。だってかっこいいなと思っちゃってるもんね。)

そういえば友達でK-POPアイドルが好きな子がいるのだけれども、その子は逆に「男が見えると引く」。かっこいい楽曲とか、肌見せのある衣装だと無理らしい。しかし性的表現のあるBL漫画はいけるし、そのアイドルグループ内でのカップリングで同人誌を書いている。

これはともに欲望自体は存在していて、わたしは隠蔽していない、彼女は開示に抵抗がある、ということになるのかな。

構造としては、「自分と男性アイドル」という形になるか、「男性アイドル二人(しかしどちらかに自分を仮託)」みたいな。うーん。わからん。 しかもこんな単純ではないような気がするし。

◉「普通の男の子と王子様ーアイドルというコンセプトを巡って」

足立「おそらく八〇年代くらいから徐々に変化してきていて 、小泉今日子 ( 「なんてったってアイドル 」 )や森高千里のように自己パロディ的なアイドルが増えていく 。私はハロプロのももち (嗣永桃子 )がまず頭に浮かびますが 、ジャニ ーズであれば S e x y Z o n eのケンティ ー (中島健人 )など自覚的に 、そして過剰にアイドル性を引き受けてみせる子たちが存在している 。松田聖子のように夢を信じさせてくれてありがとうというのとは違う 、なにかが揺るがされるような感覚を起こすような子たち 。」

ケンティーは「アイドルとはこういうものだ」とされる受動的な姿を過剰に引き受けることで、その過剰さの分だけなぜか主体的になっている

ふむ。

そういえば、ももちやさゆはわたし可愛いキャラで(バラエティ上は)叩かれていたけれど、ケンティーはさすがー!となるの、何故なんだろう。女性は自分の美しさに無自覚なほうがいいとされているから?完成度?キャラ設定?時代?


「推しには育てるという文脈もこめられているので 、それは AKBにもすごくマッチしていると思うのですが 、ジャニーズの担当にはファンがすごく従順な感じがある 。ジャニーズはたとえば僕が担当に対する不満を少しでも書くと 、なんでそういうことを言うんですか 、がっかりしましたと言ってくる人が必ずいるんです 。ファン同士が自主規制のなかで愚痴すら言えない状況を作り上げている 。ファンは担当さまにつかせていただいているんですよ 。女性アイドルの場合はアイドルよりもファンが上に感じるのですが 、僕のなかでは男性アイドルはファンが下のように感じるんです 。

これね!!なんでだろう。ジャニーズはメインターゲットの年齢層が下だから?
地下アイドルだとまた違ってくるのかな?


感想
・学術的な文章自体読み解くのが苦になっていてわろた。斜め読みになっちゃったから文意くみとれてないかも。
・専門外のわたしに語ることのできるのは「わたしにとっての彼ら」という範囲だなあ、きっと。
・宗教学的にアイドルを読み解いた文章を読んでみたい。

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