見出し画像

自立に一番必要なことは自分の弱さを受け容れること。

こんにちは。一昨日から「つながり探究家」と名乗り始めました、美月です。(理由はまた後日😆)

FacebookやInstagramでは散々言っているのですが、2023年7月、イギリスの小さな大学シューマッハ・カレッジへハネムーン短期留学してきました。

ハネムーンと言えばバカンスや観光が多い中、なぜ短期留学なの?とツッコミどころ満載かと思いますが、その辺りの理由は「シューマッハ・ハネムーン報告会」にてお伝えしていますので、興味のある方はご参加ください。(どなたでもご参加いただけます。申し込み方法はページに記載しています!)

今日は、シューマッハ・カレッジに行ってから1か月経って気付いたこと、考えたことがあるので自分用振り返りとして久しぶりにnoteを書こうと思います。

★そもそも、シューマッハ・カレッジとは?
(個人的にはこのgreenzさんの記事が一番好きです。)


あたらしい経済学を学べる世界唯一の学校

シューマッハ・カレッジは、「意識改革の学校」「あたらしい経済学」の学びの場とも言われています。
今回参加したショートコースの中では、農業体験、土や生態系の学び、システム思考、アクティブリスニング、新しい経済学、シューマッハ流の学び…とひとことで纏められないほど視野の広い学びをしてきました。



でね、それぞれの授業はものすごい感動して、心震えたんですけど、未だに「どうして農業体験やシステム思考、内的成長が新しい経済学につながるのか」が言語化できていなかったんですね。

帰国後1ヶ月が経つんですけど、ここに来てその関係性、構造がようやく腑に落ちたので言語化をしてみようと思います。(自己組織化のチカラ、すごい…!!)

あたらしい経済学のキーワード

あたらしい経済学のカギとなるのは「つながり(相互依存)」にどれだけ気付けるか、という視点です。

経済が豊かになればなるほど、大規模生産システムになればなるほど、自分が誰が創ったものを食べているのか、受け取っているのかに気付きにくくなります。



誰が種を巻き、育ててくれた野菜を受け取っているのか。
野菜が育つまでの土壌、水、空気、太陽はどこから来ているのか。
土を耕しているのは誰なのか。人間と人間以外?
育った野菜を運送してくれたのは誰か、料理してくれた人は誰か。

そういった、今目の前にあるもの以外の存在への想像力が失われていきます。

例えば、お店で1000円のお野菜定食を食べているところを想像してみてください。
その定食が、頼んでから時間がたっても、中々提供されません。
あげく提供された定食のお野菜が痛んでいたり、小さかったりしたとしたら?
どんな気持ちになりますか?

たぶん、シューマッハに行く前のわたしだったら、
「1000円払っているんだから、美味しい料理を提供してよ。なんでこんなにお野菜小さいわけ!?」と少しモヤっとしたと思います。

この気持ちって、「区別」「判断」が強いが故に湧いてくる感情です。
「私」と「野菜定食」を区別しており、「1000円⇆野菜定食」の等価交換だと捉えています。
野菜定食の背後にある様々な人や自然の恵みには意識が向かず、「わたしは1000円を支払った(支払う能力がある)んだから、その分をもらう権利がある」とあたかも自分の方が、お金を支払った側の方が立ち位置が上のように捉えているからそう感じるんだな、と。
でもつながりの感覚を経てからは、異なる視点で出来事を捉えるように変化しました。お野菜が小さいのは連日の酷暑で雨が降らないからかもしれない。それは、温暖化の影響かもしれない。だとすれば、エネルギーを日々使い、二酸化炭素排出に関わっているわたしも複雑なつながりの中のイチブ。色んな理由が考えられて安易に断定はできないけれど、目の前の現実であるお野菜が小さいことはすべてが店側の責任ではなく、わたしも1人の当事者かもしれない、という想像をはたらかせることもできるようになりました。

「自立」と「依存」の意味を問い直す


つながり、というのはお互いに依存しあっている、という風に置き換えることも可能です。
自立と依存という言葉を思い浮かべてください。
自立が良くて、依存がダメ、というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

わたし自身も、人生の半分以上は自分の力で立つという意味の自立を追い求め、自立すれば自由になれるとがむしゃらに頑張ってきた日々があります。
今回シューマッハ・カレッジで学び、わたしと他者と地球、あらゆる存在との相互のつながり(依存関係)を感じて、依存はダメなことではなく「当たり前に起きていること」だとわかりました。

以下、脳性まひで障害がありながらも小児科医をしている熊谷先生の自立の定義です。

「一つ一つの依存先への依存度が極小となり、あたかも何物にも依存していないかのような幻想を持てている状態こそ自立である」

熊谷晋一郎 (2013)「依存先の分散としての自立」


つまり、わたしたちがイメージしている「1人でなんでも自由にできる」というイメージの自立とは、依存先が多様で多いが故の幻想なのです。都市に住むほど、依存先を自らの意志で選ぶことができ、自立の感覚が強まりやすいんだろうなと思います。

さっきの野菜定食の例に戻ると、わたしたちは常に他者や環境との間に「依存ー支え」の関係性があるにも関わらず、意志を持って自由に選択できる時代だからこそ相互依存の感覚を持ちにくいといった側面があります。都市にはたくさんの飲食店があるわけですから、とあるお店で少し不快な思いをしたならそのお店には二度と行かずに他のお店を選べばいいわけです。

便利で選択肢に溢れる世の中だからこそ、日常から少し間をとって、いつも当たり前に受け取っていることが無くなったとしたら?と想像してみると、見えてくるものがあります。

スーパーや八百屋さんへ行く以外に食べ物を手に入れる方法を知っているだろうか。 
ある日突然断水したとしたら、蛇口をひねる、外から購入する以外で飲み水を確保できるだろうか。


わたしたちは、生まれる前から常に何かに、誰かに依存をしながら生きているんです。
だけど、お金の価値が高いが故に、お金を稼げれば自由になれる、そのためには自分がスキルアップしなければならない、強くあらねばならないと日々「自力で」なんとかしようと頑張っています。

自立に必要なことは「弱さを受け容れ、認めること」

シューマッハ・カレッジというイギリスの小さな田舎街で過ごす中で気付いたことがあります。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、実は自立に一番必要なことはきっと自分の弱さ(限界)を受け容れ、認めることです。

自分だけで問題解決をするのではなく、自分と他者のつながりに想いを馳せることで、自然と相手を思いやる気持ち、相手の声を聴こうとする姿勢が生じます。

自分だけで問題解決をすることが正解だと断定すること自体が、強さの幻想かもしれません。

それは、目の前の大切な人が「お腹が痛い」と言っているのに対して、
「手術したらいいじゃん」という関わりをするようなもの。
自分が苦しんでいる時にそんな関わりをされたい人はいないですよね。

わたしたちは誰もが弱いからこそ、他者と悲しみや喜びを分かち合うことができます。
弱い存在の代表例である赤ちゃんを見るたびに分かち合いの先生のように感じます。
弱さを開示し、周囲を巻き込める赤ちゃんの力は、実は赤ちゃんが大人よりも強い存在であることを教えてくれます。


経済をつながりの感覚から捉えなおす

話を「あたらしい経済学」に戻しますね。
つまり、大量生産右肩上がり、人間さえ良ければ環境破壊を続けてもいい、という現在の経済システムではないあたらしい経済学とは、人間以外の存在、人間が依存している地球環境をも含んで活動すること。自然やエネルギーを使うだけではなく、思いやりを持って共にあること。あるいは自社だけが儲かればいいという競争の発想ではなく、関わるすべての存在がしあわせであることを願うような相互依存(つながり)の感覚を回復すること。つながりを辿っていくと、「わたし」は必ず「誰か」と関係する、ということを自覚すること。そのつながりの感覚によって、自分さえよければいいという欲望を手放し、より小さく、よりシンプルに循環していく経済システムが育まれるのではないかということをシューマッハ・カレッジは伝えてくれていたんだな、と腑に落ちました。

シューマッハに行ってから地球環境を意識するようになり、調べていく中で見つけた一節がわたしのシューマッハの体験と共鳴し、心にすっと浸透しました。

「環境問題は、二酸化炭素排出量や温暖化そのものにあるのではなく、それを引き起こしている地球環境との関係構築の貧困さにある。」

先日、気候変動テーブルトークに参加したときの違和感はここにありました。
「地球の平均温度が1.2度上昇している」と教えられるよりも、二酸化炭素排出量が先進国がこのくらい、だからわたしたちは後世に遺してしまった加害性と責任を引き受けるべきだ、と教えられるよりも(それも大事なんだけど)、「地球環境とわたし」のつながりの感覚を身を持って感じられるようになれば、自然と環境に思いやりを持ちたいと思うようになるのに、と。


それは、「気候変動を止めよう!」なんて大層な話ではなく、大切な人にそっとお茶を差し出すような感覚。
大切な人が「お腹が痛い」と言っていたら、「何かわたしにできることがあるかな?」と寄り添う感覚です。
大切な人の声を聴くために耳を澄ます感覚は、自分が頑張るのではなく、問題解決でもなく、無駄な力が抜けていて、周囲に感覚がひらかれているような状態です。
そうやって、自分以外の存在に対してもつながりを感じることができれば、「エアコン使いたい」「お肉をお腹いっぱい食べたい」といった欲望を抑制する我慢や努力ではなく、新たな喜びと感謝に目覚め、自然と人がそれぞれの思いやりから動くのではないかな、と思っています。

つながりの感覚が、自分を満たし、他者を満たす。
そのことを信じて、これからは活動していきたい。

シューマッハ・カレッジから1ヶ月経ち、考えたこと、感じていることを言語化してみました。すっきり~!!

読んでくださった方、ありがとうございました。

シューマッハ・カレッジの体験はこちらでも小出しにしています◎忘れないように留めるって大事だなあ。


この記事が参加している募集

あなたが自然体で、心地よく過ごせるのが一番のサポートです💐