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エッセイ| 田舎で育ったこと

 朝、カーテンから眩い光が零れてくる。窓を開け放てば、一面の緑が風に揺らいでいた。ふっと鼻先をかすめる草木にかかる朝露の香り。花や色づく木の葉を拾っては、季節の移ろいを感じます。澄んだ夜の帳にかかる無数の煌めきは億光年をわたってきた、宇宙の息遣いの様でした。つまり、田舎なのである。くそ田舎なのである。

生活圏にあったのは、スーパーが一軒と魚屋が一軒、それから小学生のたまり場となっている駄菓子屋が一軒。山や木々の緑と海の青に囲まれて、必要最低限のライフラインがあるばかり。最寄りのコンビニまでは車で30分はかかるし、電車も一時間に1本程度しかないような場所だった。
 街の中心部にある小さくてぼろぼろな映画館。最新の映画がやってくるのは公開から何か月も経ってからのことだった。洋服屋さんも数軒しかないから友達と服がかぶることはしょっちゅうだし、いやに親密な人付き合いも、どこにも道がつながっていないような閉塞感も、嫌いだったことは数えきれないほどある。でもあの場所で生まれ育ったことの全てが間違いだったなんて思えはしない。

 実家がある地区には2,30軒ほどの家が連なり、その前に一面の田畑が広がっていた。そのうちのいくつかはやはり我が家の田畑で、両親は会社勤めをしながらも、自分たちが食べられるだけの野菜やお米を作り穏やかに暮らしていた。子供たちもまた、時に畦道を駆けまわり、だだっ広い校庭でボールを追いかけたり、暑さ寒さにもだえる日々は誰かの家に集まってはゲームに熱中したりしながら、のびのびと育っていく。

 夏休みのある日、私たち兄弟は友人たちと近所の公園で一日中バスケにいそしみ、夕方にはくたくたになってクーラーの効いた部屋でぐでんと横になっていた。オレンジ色の空の端が薄く藍色を帯びてきた頃、一緒に暮らしていた祖母が玄関から私達を呼んだ。畑にカブトムシがおるけど、採りに行くか?私たちは体を跳ね起こし、ドラゴンボールのゲームも一時休戦、虫取り網と虫かごを手に駆けだした。ムシキング、ぼくの夏休み2の虫相撲、世はまさに大昆虫時代であった。カブトムシやクワガタを持っていること、それだけでヒーローになれた時代である。

 家から20メートルほどの場所にある畑まで走っていき、辺りの木々を物色する。なかなか見つからぬ。そうこうしているうちに祖母がようやく追いついてきて、ほら、そこ、と指さす。私たちはゆっくりと視線を下ろし、祖母の指の先を見つめる。甲冑のように艶やかな外骨格、刀のようにまっすぐ伸びた角、凛々しい姿は武士のそれ。否、そこにいたのは私たちの憧れのそんなカブトムシではない。ふかふかの土のベッドに横になり、すやすやと眠る、かわいらしい赤ちゃんたち(かわいくはない)。しかも結構な数。子供たちは喜ぶだろうと、わざわざ呼びに来てくれた祖母。振り上げた虫網をどこに振り下ろせばよいのか分からず戸惑う私たち。隣で兄がぼそりと呟いた、いやさすがにこんだけいるときめぇわ。かくして彼の大昆虫時代は終わりを告げた。アーメン。

 また別のある日のこと。夜、スーパーに買い出しに行った母がやや興奮した様子で帰ってきた。曰く、買い物終わりにあんたたちのためにカブトムシを探してきてやろうと、近くの木々を回っていたと。街灯の傍に生えた一本の木に、光におびき出されたカブトムシが1匹とまっていた。チャンスと思い、手を伸ばす母、そして気づく、これカブトムシとちゃう、Gや。くそっ、さわっちゃったじゃん。そうおもしろおかしく話すが、子供たちは少々ドン引きしていた。えんがちょ。その空気を察してか、どこかの本で読んだが、きゃつらを食べたことがある人曰く小エビのような味がするのだという。そんな小話で場を和ませようとしたが、もはや手遅れである。そうして私の大昆虫時代も幕を閉じた。アーメン。

そんな自然の中ですくすく(?)育った私たちも、人並みに田舎の窮屈さに嫌気がさして高校卒業を機に都会に巣立っていった。林立するビルを見上げ、ここでようやく誰かになれるのだと思った。見るものすべてが目新しく見えて、毎日恋をしているようなときめきに溢れていた。
 友達ができるかと不安に感じていたけど、思い切って話かければ自然と仲良くなれた。東京の風は想像していたよりもずっと温かかった。
 東京で出会った人たちは皆優しかった。田舎者だからと馬鹿にされることもなかった。でも見えない壁は確かにあって、私たちを隔てているように思えた。
 私たちが、ふざけて入った田んぼに足をとられ抜け出せず、一生このままかもしれないと泣いていた頃、彼らはずっと多くの物事に触れて何が得意なのか、何に興味があるのかを見極めていた。私たちがこの坂道を自転車で一番早く駆け下りれるのは誰かなどとレースを繰り広げている頃、彼らはすでに将来を見据えて日々勉強に励んでいた。私が大学に入って初めて知ることも、彼らにはひどく当たり前のことばかりであった。

 都会で生まれ育ったなら、今頃ずっと先に進んでいけていたのかもしれない。こんなにも多くの選択肢に触れられていたなら、私だって。あまりに大きな差にやるせなさを感じてしまった日々もある。

 大学1年生の夏休み、キャリーケースを引いて実家の最寄り駅で電車を降りると鈴虫と蝉の鳴き声、そして胸の内側にすっと入り込んでくる夜の匂いがした。町中を走り回っていたこと、ずっとここから抜け出せない気がして息が詰まったこと、人一倍臆病なくせして、でも踏み出してみたかったこと。全部思い出した気がした。
 田舎だから得られたものがあるとか、都会の人はこの自然の素晴らしさを知らないとか、そんなことはどうだっていい。ただ、よかったことも、嫌だったことも、感情はこの町がくれたのだ。私は連れて行きたい。思い向くままに駆けまわった日々も、何の意味もなくただ可笑しかった夜も、どこまでも。
 街灯もないくらい道を灯のついた窓へと歩いていく。街路樹の前で少し立ち止まって、カブトムシを探してみる。

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