見出し画像

エッセイ| 名前のこと


 引っ込み思案、内弁慶。友達といると余計なことばかり話すくせして、人前に出ると緊張してうまく話せない。なにかやりたいことがあっても、失敗してダメな奴だって思われたらどうしよう、そもそも自分ができるわけないって、言い訳ばかり。存在したかもしれない自分の姿を思い描いて、時間だけが過ぎていました。

 何年か前、当時藝大に通っていた友人とお酒を飲んでいた時のこと。「時間がないとか、お金がないとか、自分がやりたかったことじゃないとか、言い訳ばかりしていて嫌になる。いつまでも準備体操みたいなことばかりしているけれど、いつになったら始めるつもりなんだろう」。酔いも回ってきたころ口にした、彼の友人に対する愚痴でした。あるいは自分を戒めるための言葉でもあったのかもしれません。私に向けられた言葉ではなかったけれど、それでも他人事には思えませんでした。

 在学中から個展を開き、デザインに関する案件に関わり、精力的に活動を続けて彼は優秀な成績で卒業しました。今でもたまに会うと、デザイナーとして元気に活躍している話を聞かせてくれます。
机を並べてともに学んでいた頃、それぞれ個性はあれど、私たちは同じ田舎の高校生、それ以外の名前なんてなかったと思う。
 けれどいつしか彼は先に進んで、私は止まったまま。会えばあの頃のようにくだらない話で笑いあうけれど、彼のことをどこか遠くに感じるようになっていました。

 お酒が回るとつい口走りそうになる。本当は、文章を書いて食べていきたかったんだ。言えなかったのは、想いだけはあるけれど、何もできていない自分を知っていたから。言い切るだけの勇気もなかった。

社会人として忙しない日々を送る中、ふと気が付くと「これは私のやりたかったことじゃない、これは本当の私じゃない」と言い訳をしている自分に気が付きます。転職を決意して、履歴書を書いてみるけれど、書けることなんてほとんどなくて、真っ白な余白の海を、私の名前が所在なく漂泊しています。ごめんね、何も与えてあげられなくて。チャンスも時間もあったはずなのに、情けなくて自分のことが嫌いになる。

名前を呼ばれる度、しつらえられた「私」と言う箱の中に押し込められていく気がしていました。本当の私は違うんだ、彼らはそのことを知らないのだと嘯いた。本当の私なんてどこにもいないのに。頭の中だけで、生まれては消えて行く私のこと、眺めるばかりで何もせず、なかったことにしていたのは私自身でした。

 誰かの才能をうらやんで、本当の自分という幻想を飼いならして、遠くばかりを見つめるのはやめにしよう。言葉さえままならないけれど、もうなかったことにはしたくないのです。
 書いて、残して、示しなさい。私の中にいる私のことを。
 いつかそれが私の名前に連なると信じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?