mizu_na

微妙な年頃の女性です。 どたばた人生を 言葉にして残そうと思ってます。

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最近の記事

うれしはずかし

高校二年生は理系と文系どちらかを選ぶことから はじまった。 社会科と極力距離を取りたかったし、 数学と英語とは距離を縮めたかったので 一瞬で理系に決めた。 それでも地理とは離れられず しぶしぶがんばっていたが、相変わらずちっとも 成績は上がらなかった。 理科に関しては化学と物理を選択した。 化学は力技で少し理解に持っていくことができたが、物理がとっても不穏な空気をまといながら なんかやだなーという存在に納まっていた。 ただ物理の先生がめちゃくちゃ 私の好みだった。 顔がかっ

    • おもひでぽろぽろ

      数学ではじめてつまずいたあの日は 今でも昨日の事のように思い出せる。 数学が地理や歴史みたいにできなくなっちゃうんじゃないかという恐怖におそわれた。 今まで味方だった数字や公式が みんな敵に見えた。 それと同時に絶対そうはさせないという気持ちも 強かった。 そう思った瞬間、あれもこれもできることは 全部やろうと頭の中にたくさんのやるべき事が 浮かんできて、それらを全部実行した。 これが公文で培ったものなんだなと実感した。 おそらくあの時に私の頭に浮かんだこと、実行したこ

      • ピンチ

        高校1年生の時に数学のある授業がわからなかった。 なんにも理解できなかった。 教科書に書いてあることも先生が言ってることも 全然わからなかった。 数学でこんなことはじめてだった。 公文はもう小学校の段階でほぼ終わらせていたので、高校1年生の分野なんてたぶん幼稚園生の時にしたことだった。 正直私は中学の後半くらいから 数学の授業中のなんかこの公式見たことあるなーはもうなくなっていた。 全部はじめて見る気がしていた。 でも不思議と別につまずくこともなく すんなりできていた。

        • ハイスクール

          中学校生活は テニス部と人間関係に明け暮れて 怒涛の速さで終わっていった。 そしてそのまま持ち上がりで高校へ。 1年目の最初の模試で志望校を書かされた。 そんなこと全く気にもせずに ただがむしゃらに生きてきた私はそこで 初めて将来のことについて考えはじめるのだった。 ちなみに適当に書いた志望校は東大理III 判定も思い出せないが、まぁ特に取り立てて 良い判定ではなかった気がする。 高校は部活にも入らず、 放課後はひたすらカラオケに通った。 相変わらず勉強は疎かだったが、

        うれしはずかし

          ちんぷんかんぷん

          歴史もちんぷんかんぷんだった。 あー勉強方法が分からないってこういうことか と思った。 教科書を読み込んでも、 赤シートで隠して暗記しても、 自分用のノートをまとめても、 歴史漫画を読んでも、 歴史の知識はちっとも私の頭に定着しなかった。 勉強中もこの歴史は本当に本当のことなのかとか 過去のこと覚えてどうするんだろうとか 見たこともない歴史上のおじさんの写真を見て 思いを馳せていた。 私の経験上、中高の勉強において こんなの将来何の役にも立たないじゃん と言っている人は成績

          ちんぷんかんぷん

          中の中

          ま、そんなことをしてるもんで 勉強は完全におろそかだった。 授業はかろうじて聞いていたが 部活もあったし、帰れば疲れて寝ていたので 家での勉強時間は20分ほどだった。 本当ならここで、 それでも公文のおかげで成績は上位だった とか書くところだけど普通に 順位は中の中くらいだった。 入学した時は入学式で代表のお言葉みたいなものを呼んだので上位だったはず。 なのでだいぶ当時の成績は落ちていた。 しかし公文のおかげも多少あり、国数英は 困っていなかった。 が、社会と理科が壊滅的

          青春

          中学校での部活は硬式テニス部だった。 それまでほとんど屋外でスポーツを した事がなかったので、 いろいろなことが初体験だった。 全身に日焼け止めを塗らないと まっかっかになって服も着られなくなること。 豆はできても潰れても痛いこと。 球拾いは結構めんどくさいこと。 汗をかいた後のアイスはめちゃくちゃおいしいこと。 あまり厳しい部活ではなかったので 和気あいあいと練習というより 遊んでるみたいな部活だった。 カラオケも通った。 フリータイムなんて当時はなかったから できる

          ぐるぐる

          まさか自分の頭の回転をこんなことに 使うなんて思ってもみなかった。 勉強だけに使うものだと思ってたのに 相手の人の状況や、そもそもの教室内の 現在の勢力図、自分が置かれている立場などを 的確に把握するために 毎日脳みそフル回転だった。 今となって言えることだが この経験はしておいてよかった。 もう私は女子に取り込まれることもないし 自分の意見をねじ曲げることもない。 そうやって生きていく術を強制的に 身につけさせられたのだった。 でもそんなことばかりの中学校生活でもなか

          ぐるぐる

          逃げない

          めげない そう決めてもどんどん現れる敵に めげそうになることもあった。 でももしここで逃げても どうせこれからの人生で同じようなことは たくさん起こる。 女子グループはどこにでもあるし、 悪口だって飛び交ってる。 そんなの何歳になってもどこに行っても一緒。 これからそこで自分が無理して合わせたり 悪口に加担したりするように生きていくの? とそのたびに自問自答した。 私は好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと しっかり言いたかった。 その態度が気に入らないなら陰口じゃなくて

          逃げない

          めげない

          でも私はめげなかった。 だって私が行くって決めた学校なのに 楽しく過ごせないなんておかしい。 私は私らしく生きたい。 人の顔色を伺ってこれから生きていくなんて まっぴらごめんだと思った。 そこから先はやるべき事は明白だった。 私はただ楽しいと思うことだけをした。 それで陰口を言う人がいれば こっちから呼び出して話をした。 面と向かって言ってくるならこれ幸いと とことん言い争った。

          めげない

          病み期

          まず教室内には女子のグループが3から4個くらいできていた。 そこに属さない子が2人か3人くらい。 私はそこまで目立たない子たちでできてる グループにいた。 でも同時に部活もはじまり、そこでできた友達2人は一番目立つグループにいた。 当時グループを超えた友情はご法度で、 その子たちと仲良くすればするほど というか教室内で少し話をしただけでも 私はどっちのグループからも悪口を言われた。 その当時は病むなんて言葉もなかったけど でも私は病んだ。 学校行くのやだなって思ったことも

          波乱のはじまり

          中学校生活は本当に波乱だった。 何が波乱だったかって…人間関係。 小学校の時の私はやっぱりちょっとした有名人だったし、周りが大人だらけだったこともあり 自己中ぎみだった。 誰かが傷つくとか何も考えずに発言したり 行動したりしていたし、そもそも 似たような考え方の同世代がいなかったので 友達も少なかった。 でも中学校はそうはいかなかった。 周りも多感、私も多感。 入学して最初にできたグループですぐに戦争が起きた。

          波乱のはじまり

          新しい1歩

          楽しかった公文が終わってしまった。 私は元来始めたものはとにかくずっと 続けるタイプで習い事も基本的に ほとんどやめたことはなかった。 水泳も習字も結局高校3年生まで続けたし あとは先生の都合で終わりになったものだった。 小学校高学年でまずまず頭も良くなっていた私は中学受験をすることにした。 エスカレーター式で中学校にも上がれたが、 高校がなかったので、結局受験するなら 高校受験より中学受験の方が 楽しい中学校生活を送れそうだなと思ったからだった。 田舎の私立中学だった

          新しい1歩

          終わっちゃった

          公文の生みの親である公文公さんにも会った。 すごい白髪のおじいちゃんだったけど 優しく抱きかかえてくれた。 英検に最年少で受かったり テレビに出てみたりして 私はちょっとした有名人だった。 その頃から私は 私が知らない人でも向こうは私を知ってるという 状況に慣れっこだった。 小学校高学年で大体公文が全部終わってしまうまで私は公文に通い続けた。 終わってもまだもう1回やりたいと言ったけど それはさすがに止められた。

          終わっちゃった

          とんとん

          そこからもとんとん拍子に 物事は進んで行った。 英数国の3教科を毎日欠かすことなく 好きなだけやりまくり、ついに 全国のトップランカーになった。 毎年公文に招待してもらい、 優秀児の集いとして全国いろいろなところに 家族で行った。 偉そうな大人の前で いつも通り公文を解いて見せて つらいことないの?辞めたいと思ったことないの?とか聞かれたり、作文の発表などをしたりした。

          とんとん

          どんどん

          初めて公文の教室に足を踏み入れてから 私は毎日公文のプリントをがしがしやった。 母が専業主婦でまだ幼稚園に行っていなかったこともあって私はひまだった。 1週間で100枚やった事もあった。 やればやるほどどんどんプリントがもらえて 全く飽きなかった。 1度始めたことは最後までやりたい私に すごくぴったりだったんだと思う。 よく言われるけど勉強してるという感覚は 本当になかった。 そして気づけば進度は教室の中ばかりか 県の先頭になっていた。

          どんどん