どうせ自分なんてと絶望しながらワクワクを探して生きるって、一体どういうことなのだろう?
自分自身や自分の人生や世の中に絶望しながら、その中でもワクワクをいつも探して生きるとはどういうことなのでしょうか?
「絶望」と「ワクワク」って正反対の意味ですよね。この2つって決して相容れることはないですよね。
「絶望」と「ワクワク」を2つ同時に感じることって出来なさそうですよね?
絶望するって「ああ、もうダメだ」「どうせ自分なんてどうにもならないんだ」って諦めの境地になることですよね。
私というのはどうも地に足を付けて生きるのが昔からいまいち苦手な人間でして。
現実感を持つのがなんか苦手で、どうしても自分の頭の中の夢想の世界へ旅立ってしまう傾向があります。
そうこうしてるうちに、3次元世界ではどんどん人に取り残されていくし、遅れをとりやすいタイプの人間です。
また感覚的な作業などが子供の頃とかある年齢まではずっと苦手で、身体を使うことがあまり得意でなかったので、苦労したことも多々ありました。
現実社会で馴染むのが苦手だったわけですね。
それでも年齢を重ねていくにつれだいぶましになりましたが、中年になった今でもそのような傾向は十分に残っていて、やはり生きづらいと感じることもあります。
自分に対して絶望している、諦めている、どうせ自分なんてと思っている。
でも、これってそんなにネガティブなことなのでしょうか?
絶望している=諦めている、ですよね。
しかし昔から仏教の教えでは、諦めるとは「明らかに見る」という意味でもあると言われています。
つまり私はちゃんと自分のことが今は見えている状態だし、ちゃんと自分のことをイヤイヤながらも受け入れて、認めているということでもあります。
だとしたらそんなに悪いことではないですよね。
本来日本人というのは元々自虐観の強い民族だと言われていますし、そのネガティブさによってここまで発展してきたという説もあります。
どうせ自分なんてと絶望しながらもワクワクすることを探すことはできるでしょう。
それは今現在に集中することかもしれません。
とりあえず今自分がいる場所、たった今自分がやっていること、そこだけに意識を集中させることしかない。
過去とか未来とか他人がどう思っているとか、どんな意図を持っているだとか、明確な答えを出すことが不可能なことを考える必要などない。
こんなどうしようもない絶望的な自分でも、今この瞬間にこれをやったらワクワクしてちょっとは楽しいだろうということを、毎瞬毎瞬考えながら生きていくのです。
そしてどんなに絶望している自分だとしても、やはり体が健康でないといけないかもしれません。
持病があったとしても、自分ができる範囲で健康を保つことは大事でしょう。
どうせ自分もこんなだし、世界も歪でとても変えることなんて無理だけれど、せめて十分な睡眠だけは取ろう、ちゃんとした食べ物を食べるようにしよう、運動もできる範囲でやるようにしよう、そう意識することは大切なように思います。
それはきっとワクワクを探す原動力になるのだと思います。
ちょっと前にイヤな思いをしたとしても、それを忘れさせるようなワクワクすることを今頭を巡らせて考えます。
今できるワクワクすることは何だろう?そうだ、とりあえずムカついた気分をすかっとさせる音楽を聴こう!とか、ゲームを思い切りやろうと携帯のゲームアプリを検索するとかでもいいのです。
ワクワクすること、、、とりあえず、スキップでもしてみようかな?歌でも歌おうかな? なんか美味しい店でも調べてみようかな?ちょっと散歩でもしようかな?
もうなんだっていいのです。人の目なんて気にしなくていいのです。ワクワクした気持ちになりそうな言動をするのです。
どうせ人間なんてみんな醜いし、それは自分もおんなじだし、そんなどうしようもない現実だからこそ、自分なりに楽しくなれることを探しながら生きるしかないのです。
それ以外方法はないでしょう。