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#54|子どもの純粋さを対等に尊ぶ。-『七つまでは神のうち』

大人だからといって偉いわけではない。
子どもだかといって劣っているわけではない。

同じ「人」として生まれた以上、存在価値は対等だと思う。そこに優劣はない。

ただ生きてきた年数が違う故、大人は経験と知識を持っている。一方で子どもは、純粋さと素直さを持っている。

それぞれの立場、それぞれの見方で考えているというだけだ。


だから「黙って大人の言うことを聞け!」という大人の主張は乱暴だ。

大人と子ども。
お互いがお互いの言うことに耳を傾け、謙虚に学びを得る姿勢を持つことが、真に対等なコミュニケーションだと思う。
(もちろん、子どもには難しいということは、大人は知っておくべきだし、時に大人が譲歩することは必要だけど。)

大人は経験と知識、重ねてきた判断とそのフィードバック等、様々な要因が絡み合って、自分でも気づかない「無意識のレイヤー」を持っている。「先入観」や「固定概念」「観念」と呼ばれるものだ。

普段私たちは、ほとんどすべての事柄をこの「無意識のレイヤー」を通してみている。

そして「無意識のレイヤー」は名前の通り無意識レベルに刷り込まれているため、自分自身で気づくことはとても難しい。お互いにレイヤーを持った大人同士でも、気づかせ合うことは難しい。


そこで子どもの登場だ。
世界を素直に純粋に見る子どもたち。
彼らの何気ない発信を無下にせず、対等な関係のもと謙虚に受け止めてみると、自分が持っていた思いがけない「無意識レイヤー」の存在に気づかされることがある。

昨日の話。

4歳の娘が、大好きな新幹線ごっこをしていた。今日は「秋田新幹線・こまち」になり切っているらしい。
何気なく、何両編成?と尋ねると『5りょうへんせいでーす』との答え。ほう。

次に「東北新幹線・はやぶさ」が来たようだ。また車両数を尋ねると、やはり『5両』との答え。


親の欲目、「こまち5両」と「はやぶさ5両」が連結したら、全部で何両かわかるかしらと尋ねてみる。すると娘は、ちょっと考えたのちに「2!」と得意げな顔をする。


「こまち・1」+「はやぶさ・1」=2、ということか。

うんうん、そうなるよね。4歳に足し算は無理よねと思い直し、私は娘の目の前で両手をパーに広げた。右が5、左も5、全部でいくつ?と。


「手の指の数は5本」ということは知っている娘。私は当然、指の数を数え、「10」と言ってくれることを期待した

娘が出した答えは、やはり「2」。
娘の指先は私の手の平、つまり「片手ごとのカタマリ」を数えている

さっきまで新幹線の車両数の話をしていた。
こまちもはやぶさも、5両だと娘は言った。

そして広げた手は、「右の指が5・左の指が5」。
合わせて10。


手を広げて、数の話をしていたら、当然指の数を数えるでしょ?10進法の基本だよね…、これは「大人の無意識レイヤー」だった


娘は「手の数」、つまり右手はひとつ、左手もひとつ。合わせてふたつ!と数えたんだ。

数学的にどちらが正しいという話は、小学校に入ってからでいい。大事なのはそこではない。

「数の話をしている時に手を広げたら、”当然”指の数を数えるでしょ」という「無意識レイヤー」を私が持っていた。
それに気づかされた点が重要だと思っている。

娘が「2」と答えるまで、私は自分にそんな「無意識レイヤー」があるとは思っていなかった。

きっとこんな感じで、無意識レイヤーは他にもたくさんあるはずだ。


子どもだから。何も知らないから。

そう考えて彼らの発言を聞き流したり、大人の理屈の正しさばかり教えようとすると、とても大事なことを見逃してしまうことになりそうだ。


子どもだって、いずれ「大人の理屈」を理解し身につけていく。心から純粋で素直に見て考えて発信できるのは、幼児期のほんの数年のことだろう。


「七つまでは神のうち」という言葉が頭をよぎる。産まれてから七歳までは、私たちは子どもを神様から「預かっている」という、古来の考え方だ。まさに穢れなく純真無垢な幼児期と重なる。


子どもが発信することは日々成長し、変化してゆく。
忙しさに紛れ、大切なことをないがしろにしないように。対等に受け止め、彼らを尊重できる大人でありたいと思う。

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