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病気のカミングアウト

診断結果

2020年3月9日、父の精密検査をするため、紹介状を手に大学病院へ向かいました。
着いてビックリ。まず駐車場がいっぱいです。
両親を入り口で降ろし、車を遠くに停めてやっと入れた病院内も「こんなに朝早いのに、何でもうこれほど多くの人がいるの⁈」と、互いに顔を見合わせるほど、ロビーは人でごった返していました。
大学病院にまず軽症者は来ないはずです。世の中に一体どれだけ多くの病があるのかと、しみじみ感じ入りました。

待合室には座れる場所がなかったので、一階のカフェに移動して時間を潰すことにし、待つこと2時間。その間、父には母が付き添い、診察までに血液検査、CT検査、内視鏡検査…とまわりました。
その後ようやく診察室前で落ち合った時の父は肩で息をしている状態。
検査のために朝食を抜いていたせいもありますが、やはり体力がかなり落ちていることは客観的にも見て取れました。

やっと順番が来て、全員で診察室へ。
主治医の先生が穏やかな雰囲気でホッとしたのも束の間、告げられた結果内容は厳しいものでした。

胃の中に癌が二箇所あり、リンパ節と腹膜にも転移。肝臓にも転移。
胃の方は幽門部(出口)を癌が塞いでいて食べ物が通過しにくく、いざとなったらバイパス手術をするけれど、根本的な治療としての手術は適応外。
ステージはⅣ。化学療法でやっていきましょう、ということでした。

…それって、かなりシビアな状態ってこと?
先日の検査の時に、肝臓にも影が見えると言われた時点で、ある程度覚悟はしていたものの、さすがに絶句しました。
インフォームドコンセントが当たり前の現在では、一昔前のように「本人には癌であることを伏せておく」ということはありません。
本人も一緒にそこで聞いています。この状況でなんと言っていいものか…と思っていると、父が「ありゃー」と苦笑いしながら、
「先生、私はゴルフが好きなんですが、今シーズンもできますかねえ?」
なんて、言うではありませんか。そんな、ゴルフなんて場合では…。
そうしたら、先生はあっさり「できますよ」と、仰る。
「一度入院はしてもらいますが、化学療法は基本的に外来で大丈夫でしょう。抗がん剤治療をしながら仕事をする人もいますし、調子が良ければ、ゴルフでもなんでも好きなことをしていただいて結構ですよ」

…え?そうなんだ。

意外な答えに、もしかして、もしかすると、薬が効いて体力さえあれば、癌の治療をしながらでも普通の生活を送ることが可能で、本当にゴルフができるようになるかもしれない、ということ?
よくドラマなどである、
「先生!余命はあとどのくらいなんですか⁈」
と青ざめた表情で詰め寄るような場面とは程遠い雰囲気で、診察室を後にしました。

余命

とはいえ、一般的にステージⅣは厳しいことくらい分かっています。
5年生存率はたった6〜7パーセント。でも寛解する人がゼロではない。
この数日で、胃がん、転移、ステージ、末期癌…、あらゆるキーワードを調べ尽くしました。
その中で、この生存率のパーセンテージというものがずっと心に引っかかっていました。
そもそも、人間の余命は病名やステージで数値化できるものでしょうか。生活のバックグラウンドも何もかもが異なる、病状だけが共通項の患者を一緒くたにデータとして示した平均値に意味はないのではないか、とさえ思えます。

もちろん、余命がある程度分かった方が残された時間を有意義に過ごせるということも理解はできます。
でも、それは病人だけに限ったことではないのです。
今生まれた赤ん坊だって、この世に出た瞬間から死へのカウントダウンは始まるわけで、どんなに若くて元気な人でも、いつその人生が終わるのかなんて誰にも分からないのですから。
できるだけ普通の日常を送りながら闘病することができるなら、それは理想的に違いない。それが1日でも長く続くように努力すればいい。ただそれだけのこと。
…そう自分に言い聞かせながら、お腹に力を入れて緩む涙腺をギリギリ保って家路につきました。

カミングアウト

しかし、当の本人はというと、
「実は、癌になっちゃってねー、胃・が・ん。転移もある。ステージ・フォーだって。明日からしばらく入院することになったよ」
と、兄弟や友人、ご近所など、あちらこちらに電話をかけ、あっけらかんとカミングアウトしていました。しかも、何の悲壮感もなく、時に笑い声まで混じえて。
これはいきなり聞かされた方が戸惑ったに違いありません。
癌は日本人の2人に1人がかかる病であり、何も隠すことはないのはわかるけれども、突然深刻な病状の話をされて、相手がどう反応していいものやら困るかもしれないではないですか。普通はちょっとオブラートに包むとかするものだろうと思うのですが。

そして迎えた入院の日。
通された病室は4人部屋ですが、個別スペースが割と広くプライバシーは確保されています。
手続きを終えて荷物を運ぶと、父はすぐにベッド周りを自分仕様に整えはじめました。そしてサッサと病衣に着替え、布団に入り「さあ、もう帰っていいよ」と。
なんだか慣れている…。
そう、若い時に長い入院生活を送ったことがある父は『プロ患者』なのです。
病状を包み隠さず周囲に報告したのも、その方が良いことを経験からわかっていたのでしょう。
憶測で気を使わせてしまうより、ありのままの現状を伝えてしまう方が、いっそスッキリとした接し方ができるというところでしょうか。

このように、本人がいたって平常心なのは救いでした。
そして、してほしいこと、持ってきてほしいものはなんでも私に遠慮せず伝えます。
ちなみに母は元気ですが、同じ高齢者だからか彼女には何も要求せず、入院や通院の付き添いや在宅看護を含め、とにかく娘である私に全部してもらいたい、というのです。
主治医の話も私がしっかり聞いて、改めて自分にわかりやすく説明するように。そして、入院中に病院の食事をしっかり分析して、今後在宅治療に向けた闘病食の勉強をしてほしい、と。
精一杯の親孝行をして悔いのないようにさせよう、という親心なのかな?
いや、違う。
この人は本気で治すつもりなんだ。

そこで私自身も腹を決めることに。
今後の仕事に影響しないように、これからは時間配分に知恵を絞ろう。ただし、何かあってもすぐに駆け付けられない海外の仕事はキャンセルです。まずは当面のスケジュールを書き出して計画を立て直しました。
これまで、ピアノを弾くために一切の家事を母に任せてきましたが、闘病食を考えるにあたって、この際食事は全部私がやることにして母から完全にキッチンの政権交代をしなければいけません。
そして仕事関係者にもありのままを話して、これからちょっと家のことで忙しくなる旨を理解してもらいました。
何とかなる。いや、何とかする。

そうして闘病に向けての生活が始まったのです。


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