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私にとっての仕事とお金(5)


自分の仕事について振り返っている。

事務職からシステム開発に異動したものの、プログラミングスキルも上がらないまま、社内評価は低空飛行。リーダーとも関係性が悪くなり、周囲に相談できる人もいない。
孤独感を強めた私は、会社を、というよりもシステム開発の仕事からきっぱりと決別する決心をした。資格の学校に通いだし、会社を辞めると伝えた話の続きである。

2002年、わたしは30歳になっていた。

個人業務委託への切り替え


部長に辞職を申し出ると、こんなことを聞かれた。

「どうして辞めたいの?」
「資格の学校に通っています。司法書士になりたいです。」
「辞めて生活はどうするの?」

そのまま私は素直に答えた。
「派遣に登録して働きます。」

本当に考えていたことだった。既に2つの派遣会社に登録もすませていた。
すると、部長から思いがけない提案をされた。

「だったら、うちで個人業務委託で働いても同じじゃない?」

「たしかに学校に通って試験勉強もしなくてはいけないのに、新しい職場、新しい人間関係なんて、しんどそうだな・・・」

そもそも派遣登録してやっていけるほど、スキルに自信がない。部長の提案に乗って、個人業務委託に切り替えることにした。

一旦退職の手続きをした。健康保険組合から国民健康保険へ、厚生年金から国民健康保険へ。お小遣い程度の退職金ももらった。自分で確定申告をしたのも、この時が初めてだった。

最初に書いたように、個人業務委託に切り替えたことが、後々の私に大きく影響したと思う。

最も大きかったことは収入の違いだった。
個人業務委託に切り替えたとたんに、月収は倍以上に上がった。

謙遜でもなんでもなく、わたしの能力が素晴らしかったとか、そういうことでは決してない。当時の私の社内評価が低かったのは、誰よりも自分が知っている。

実際にその報酬額は、個人業務委託で働いている他の人よりは相当安かったと思う。社内には、目が飛び出るようなお金で契約している人もちらほらいた。それでも採算が成り立つ。なぜなら私たちの仕事が「システム開発」だからだ。

収入が増えた理由


システム開発は「人月○円」の世界だ。

派遣契約やSES契約(業界特有の委任契約の一種)はもちろん、請負契約であっても、ベースは「この人は月いくら?」の世界なのである。

特徴的なのは、事務職派遣などに比べると、技術者の単価が高いということだ。その価格はその人のスキルや役割によっても違うが、会社の規模やネーム、営業力や客先との関係性によって決まることも多い。

テスターやプログラマー初心者が月60万でも安い方だと思う。よく聞く価格帯は70万~100万、コンサルタントなら200万以上(コンサルとして名の通った外資であれば、その倍以上とも聞く)といったところである。

毎月一人あたりこれだけの売上があるならば、システム開発の会社は常に大きな儲けが出そうだが、意外とそうでもなかったりする。人を売り物にする以上、人の調達にお金がかかるからだ。

例えば80万で提案したくても、社内で調達できずに協力会社から出してもらうと、そちらから70万と言われたら、10万しか利益にならない。社内で調達できたとしても、社会保険料の会社負担分など、人の維持には相当のコストがかかる。
そう考えると、会社間の力関係もなく、社会保険料などの会社負担のない個人業務委託を使うというのは、かえって安上がりとも言える。

「協力会社から人を出してもらうよりは安い」「交代で新しい人を入れるよりコストがかからない」「退職者を出すと怒られる」

部長の中で、そんな計算が成り立っての提案だったのだろう。

心の余裕

とにもかくにも、収入が増え、正直なところ、ほっと一息ついた。
社員の時と違って楽に貯金もできるようになったし、心に余裕が生まれたのだ。

私はこの時の安堵感が忘れられない。安い給与で仕事をすると心がすさむ。もちろん仕事というものはそれだけが価値ではないけれど、よほどの志や目標がないならば、安価な仕事はしてはいけない。今でもそう思っている。

かといって私は冷静に部長の判断を見極めていたし、自分への信頼がないのは、依然として変わらなかったし、この仕事が好きではなかった。

ただひたすらこう思った。
「とにかく早く、この仕事から抜け出さなくては」

といっても、今すぐ抜け出すということは考えていなかった。その時、こんな妄想が役に立った。苦手な人と対峙するとき、「この人を司法書士になったときのお客様に見立てよう」という妄想である。また何かを説明するときに司法書士として何かを話す場合を想定する。このシミュレーションは目の前の仕事をやり過ごす役に立った。

しかし1年程たって、個人業務委託の人を使って仕事を受けることがNGとなり、個人業務委託で働く私たちは法人格を得るか、他社に転籍するか、契約社員になるかを選択してほしいと言われた。

わたしは契約社員を選んだ。

会社の社会保険料が増える分はちゃっかり差し引かれていた。それでも給与は一般社員よりは高く、女性が独りで小さいアパートで暮らすには十分な金額であった。

別部署へ異動

そんなある日、課長に呼ばれた。

社内の別の部署のプロジェクトで人を集めているのだけどそちらに行かないかという話だった。

そう言われて、その課長に会いに行った。会議室に行くと小柄な男性が座っている。U課長だった。話し方がユーモラスで目がキラキラと、いやギラギラと、光る人だった。

「VBできる?」
「まあ、やっていました・・・」
「△△さん知ってる?」
「はあ、その人は知ってます・・・」
「その人がリーダーの案件なのよ。助けてあげてよ〜!決まりね!」

矢継ぎ早の質問の中で、あっけなく次の仕事が決まった。そんな話し方をする人に社内で初めて会った。面食らったけれど、少し元気をもらった気がした。レンタル移籍という形で、その仕事に入ることになった。

1カ月もしないうちに、元の部署のM課長が私の席までやってきて、「U君のところに異動することにしてもいい?別にいいよね?」と言ってきた。

このM課長も悪い人ではなかった。いやむしろ温和で優しい人柄でもあった。しかしその目が「ああ、これで面倒な子を手放すことができる」と物語っていた。
陰湿な部長と、私のことを面倒だなと思っている課長の下で、望まれない場所にいるくらいなら、まだ異動するほうがいい。

「はい、いいです」うなずいていた。


新しいチーム、そして大炎上


次の仕事はまたクライアント/サーバーシステム開発だった。
リーダーもメンバーも違う。私は久しぶりに仕事中に笑った。

ところが、この仕事は、大炎上する。

契約で決まっていたテストまで終わり、納品できたと思ったのもつかの間、翌週に突然、客先に呼び出されることになったのだ。いつも明るいU課長が珍しく青ざめるぐらいの事態だった。

私のチームには優秀な人が2人いた。特に新卒のT君は凄まじくできる人だった。彼が主力で作ったプログラムがそんなにバグを生むものだろうか?

様々な行き違いが原因だった。スタートラインの要件定義が間違っていたので、わたしたちは数ヶ月の間、ほとんど違うものを作っていたのである。

よくこういう事態の場合、双方に原因があることが多いのだが、この場合はそうでもなかった。珍しい事例でもある。

客先のプロジェクトリーダーが自分の上司にも、わたしたちにも、ずっと嘘をついていたのである。その人がなぜ嘘をついていたのかはわからない。プレイングマネージャーだったから、どこかでこっそり、自力で回収しようと思っていたのかもしれない。

今思えば、わたしたちはもらい事故の被害者のようなものだったが、当時は誤解が解けず、客先の上層部に叱責された。ここには書けない、もっとひどいこともあった。

呼び出された翌日から、田畑と工場地帯の広い道路以外は何もない、とある田舎の工場に出張することになった。

辛い、でも楽しい

ガラガラと横にひくような鉄の扉、ガコーンガコーンと工作機械が鳴り響く高い天井。安全第一と書いてある壁。周囲には何を作るのかわからない工作機械が並ぶ。夕方出向いたためか、なぜか人がおらず、「明日からここが作業場所です」と突然言われた。

ツルツルの工場の床に並べられた、よく町の集会場などで見るような、折りたたみの合板の机。パイプ椅子。

そこにずらりと全員で30センチ刻みぐらいで並び、バグを直す。パーテーションの向こうには客先のテストチームが座っていて、時々陰口をたたかれる。

朝は早くから工場に出向き、閉鎖される22時に外に出て、夜は安っぽいビジネスホテルで眠る。

翌朝はホテルの前から出る工場地帯に行くバスに乗る。工場が閉まるため残業は夜22時までと決まっているため、朝は7時ぐらいに行くときもあった。

夜は皆でコンビニに寄って、お菓子や酒を買うのが安らぎだった。なぜかホテルに冷蔵庫がついておらず、アイスが買えないのが悲しかった。

最初は上司に「3日間だけ我慢してほしい」と言われたのだが、気付くと1カ月以上、一度も自宅には帰れなかった。

1回だけ都内の自分のアパートに着替えを取りに行った。それでも足りず、残りはスーパーで調達した。スーパーに行く時間も与えられなかった私たちは、何とかお願いして早めに帰り、夜の閉店間際に皆で滑り込んだ記憶がある。
物を買う喜びを久々に感じて、フロアを走り回り、イトーヨーカドーのTシャツに歓喜した。

その時の私たちは「明けない夜はない」くらいの心持ちを抱いて必死だった。朝バスを待つ間、ビジネスホテルのロビーのテレビを見ていると、渋谷のスクランブル交差点が映った。懐かしい景色。チームの中で仲の良かったIさんと「あそこに帰れるのかな、わたしたち」と絶句して見つめた。

あまりの環境の悪さ、そして先が見えないバグの数に、永久に工場の中に取り込まれるような気持ちになった。

でも私は一方で、久々に「楽しい」と思った。チームの皆が仲が良かった。上司が私を信頼してくれている。だた、それだけの理由だけで。

信頼

Uさんはちょくちょく見に来てくれて、外食もできない私たちを焼き肉屋に連れて行ってくれた。私たちを叱りもせず、焦らせもせず、守ってくれた。

人は信頼で変わる。

このプロジェクトもどんどん様相が変わっていき、誤解が解け、客先上層部に叱責されていた私たちは最終的に感謝された。後日、すこぶる優秀だったT君とリーダーは別案件でもぜひ来てくださいと言われたが、さすがに断ったらしい。

私の仕事への向き合い方も変わっていた。他の多忙なメンバーに代わって、「これなら私が直せます」と、その人のプログラムを直したこともあった。

チームは解散したが、私たちの絆は強く、その後しばらくはよく飲みに行った。「あんな仕事は二度とゴメンだ」「あのときの○○さんの顔!」みたいな話で、何度も笑った。

そして新しい部長は、契約社員の私の単価を少しUPしてくれた。「積極的にチームに貢献してくれたからね。」と。

私は司法書士の学校には当然通えなくっていた。

しかし憑き物が落ちたようにどうでもよくなっていった。学校に払ったお金が勿体なかったが、今思えば必要なお金だった。深くて暗い底にいた頃、2年間も通って生きがいを与えてもらえたのだから。

次に続く。


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