文字を持たなかった昭和429 おしゃれ(25) 毛染め

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶりなどのふだん着に続き、カーディガンなどのよそ行き、着物浴衣などについて書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 おしゃれについて語るとき髪も欠かせないだろう、というのでミヨ子のヘアケアヘアスタイル、そしてミヨ子の同級生が営むパーマ屋さんについても振り返った。

 行きつけのパーマ屋さん「エビス美容室」にまつわるエピソードは、二三四(わたし)が知っているだけでもいくつかある。ミヨ子が同級生だからかさまざまに心づかいしてくれたこともそれに入るだろう。

 代表的というかもっとも印象に残っているのは、カラーリングに関することだ。

 中年になって白髪が目立ち始めても、ミヨ子は自分で髪を染めることはなかった。髪を染める目的は唯一白髪染めだった当時、「毛染め」の用品も道具も、いまのカラーリング用品のように手軽でも多彩でもなかったから、毛染め作業は時間も手間もかかるうえ、汚れやすかった。いつも忙しく、舅や姑の目も口も気にしていなかればならないミヨ子にとって、悠長に毛染めしている時間はなかった。唯一、パーマ屋さんに行く時間を捻出できたときがそのタイミングだったのだ。

 パーマをかけに行くミヨ子が、毛染めまでしてくるようになったのがいつ頃だったか、二三四はよく思い出せないが、ある時期から「毛染めもするから」と出かけると、以前の倍くらい時間がかかるようになった。その代わり、帰ってきたミヨ子は白髪がすっかりなくなり、10歳以上若返ったように見えた。

 しかし、その毛染めが難しくなる時期が来る。時間的あるいは金銭的な理由ではない。ミヨ子自身の体調の問題だった。「ハウスキュウリ」の項で触れたが、ビニールハウス内で農薬を使っていた影響を受け、農薬中毒になってしまったのだ〈188〉。

 これ以降ミヨ子は、身の回りの化学製品をできるだけ遠ざけるようになった。毛染めの薬剤も体にはよくない。

 それでも白髪のままではばつの悪い場面もある。そこで同級生の美容師さんが考えてくれたのが、染毛剤をできるだけ地肌につけないようにする方法だった。ごく少量の毛束を取り、慎重に染毛剤を塗る。それを髪全体で繰り返すのだ。パーマ屋さんで費やす時間はさらに延び一日仕事になっていったが、その分ミヨ子は安心して髪の手入れを任せられた。

 いったいどれだけの手間がかかるだろうと、二三四も子供ながらに心配したが、ミヨ子は
「いままでと同じ料金でやってくれている」
とうれしそうに語った。

 ただこの方法も何年か後には限界を迎えたようだ。アレルギーを心配したというより、これ以上手間をかけさせては申し訳ないと思ったことと、ミヨ子自身が白髪混じりでもそれほど違和感のない年齢に達してきたためでもあった。昭和の終わりか平成の初め、ミヨ子が還暦を迎えつつあった頃だった。

〈188〉農薬中毒になった経緯とその後については、ハウスキュウリの項「(24)農薬中毒①」、「(25)農薬中毒②」で述べた。


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