文字を持たなかった昭和406 おしゃれ(2) モンペ

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまで、生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきたが、少し趣向を変えておしゃれをテーマにすることにし、前項ではまずミヨ子の体型や風貌について書いた。

 次はふだん着について。

 二三四(わたし)にとっての母親の姿といえば、まずモンペである。ミヨ子は基本的に一年中モンペを履いていた。いまの、とくに都市部の人は、モンペは戦時中の女性の服装だと思っているかもしれないが、農村の比較的年齢がいった女性は平成の前半あたりまで広くモンペを履いていた。もちろん、需要があるから供給もあった。しかるべきお店に行けば、モンペは普通に買えた。いまも、細々ながら売っているだろう。

 周知のとおりモンペは、戦時中男性に代わっての仕事や、いざというときの避難に便利な女性の服装として、着物の下半身部分をズボンのように「改良」したものだ。動きやすさから終戦後も需要があり、さらに「改良」が加えられた。ずり落ちたり、足さばきのじゃまになったりしないよう、ウェストや裾(足首)にゴムを入れたのもそのひとつだろう。

 その動きやすさ第一のモンペは、ミヨ子にとって作業着でありふだん着で、極端に言えば起きてから寝る前お風呂に入るまでずっと着ていた。ミヨ子に限らず、近隣の農家の主婦はほとんどそうだった。

 モンペの生地は、丈夫で洗いやすい木綿である。汚れが目立たないよう、紺など濃い色が多かった。ただ地の色一色ではなく、もとが着物であることを意識した絣模様や縦じまがプリントされたものもあれば、多少モダンな柄のものもあった。

 冬場は木綿ではさすがに寒いということか、ずいぶんあとになってから――昭和の終わりから平成に入った頃だろうか――キルティング生地のモンペも売られるようになった。暖かくても動きにくいと意味がないので、中に薄い化繊の綿が入った、化繊生地のものだった。

 ただ、薄い中綿でもやはり動きづらくなるのか、キルティングのモンペを履いているのは「現役」を遠ざかったおばあさんがほとんどで、ミヨ子も冬場でも木綿のモンペを履いていた。とても寒くなる時季は、「ズボン下」と呼ぶフランネルのパッチを重ね履きして。
 

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