文字を持たなかった昭和527 遺跡調査(9)地元の遺跡そして歴史

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、このところは遺跡調査について書いてきた。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、娘の二三四(わたし)はある時地元の郷土資料館の展示にミヨ子の姿を発見したこと、遺跡は瀧之段遺跡と名付けられていたこと、しかしネットで探し当てた報告書の作業協力者の欄にはミヨ子の名前はなく人違いだったらしいこと、再び遺跡を探し「上城詰城跡」という遺跡にたどり着いたこと、その場所や発見の経緯等など。

 展示写真の人物がミヨ子でなかったことは想定外だったが、二三四にとって思いがけず地元の歴史について(少しだが)理解を深める機会になった。海がきれいなこと以外これと言って観光資源らしきものはなく、その昔は街道筋だったらしい商業地区もさほど活気はない、と思い込んでいた小さな町。誇れるようなものはほとんどない田舎と決めつけ、地方特有の人間関係の濃さや農村らしい封建的雰囲気に抵抗を感じながら、二三四は思春期を送った。その先に県外の大学への進学があった。

 ミヨ子たち地元の大人はどうだっただろう。戦中まで脈々と続けてきた伝承や風習は、戦後いろいろな意味で否定されたり途絶せざるを得なかったかもしれない。古いものを進んでかなぐり捨てる場面もあっただろう。そんな時間の流れの中で、古代や中世に土地の先祖たちが築いた城や使っていたものは忘れ去られ想像もされず、「上城、詰城(うえんじょ、つめんじょ)」という小さな山の呼び名だけが残った。

 ミヨ子はこの集落で生まれ育ち、集落の青年(父)と結婚し、子供たちを産み育てた。子供が巣立ったあとも、夫の両親が残した土地とそこでの生活を守り続けた。発掘作業に関わった時点ではミヨ子の人生のほぼすべてと共にあった小さな山にそんな遺跡があったことは、歴史や考古学に興味のなかった(であろう)ミヨ子にとっても驚きであると同時に、自分が携わったことにはささやかな喜びも感じただろう―――と思わずにいられない。

 逆に言えば、縄文の古代からこの地には人が住み、ときに戦いを交えながら、何百世代にわたって営々と生活を続けてきた。ミヨ子や二夫、二三四たちもまたその一世代、その一人ということになる。古代、ここを生活拠点と見定めたのはどんな人たちで、どんな経緯があったのか。興味は尽きない。

 さて、傍から見れば貴重な遺跡、遺物の数々であるが、中断していた県の「営農村活性化住環境整備事業」はその後再開され、切り崩された山城跡には町営(のちに市営)のグラウンドやテニスコートが整備された。地元の人々は遺跡として残すという選択はせず――おそらく最初からほぼあり得ず――、現在と近い将来の「住環境整備」のほうを選んだのだ。

 惜しい気もするが、それは報告書を読んだからだろうとも思う。人々は往々にして目の前の生活のほうを優先するのだ。それが人であり、生活というものだろう。「遺跡調査」をテーマにしばらく書いてきたが、おかげで新たな知識と考察する機会、ふるさとへの再認識をもらえた。ミヨ子と、地元のご先祖たちのお導きだったのかもしれない。

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