文字を持たなかった昭和524 遺跡調査(6)別の遺跡!

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、遺跡調査について書きつつある。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、母親が遺跡発掘の「パート」に出ていたことを忘れていた二三四(わたし)が、ある時たまたま行った地元の郷土資料館の展示にミヨ子の姿を発見したこと、遺跡は瀧之段遺跡と名付けられていたことなど。

 だが、インターネットで探し当てた遺跡報告書の作業協力者の欄には、ミヨ子の名前はなかった。どうやら郷土資料館の展示写真でミヨ子だと思った人物は、人違いだったようだ。

 では、ミヨ子が発掘作業に携わっていたのは別の遺跡だったのだろうか?

 というわけで、二三四は再びインターネットで検索した。もともと古代史や考古学に詳しいわけではない。立て続けにこの手を資料を探していたら、検索エンジンのAI君は誤解するだろうな、と思いつつ当たってみると、近年成長著しいAI君のおかげですぐに別の遺跡が見つかった。

 それは「上城詰城跡(うえんじょう・つめんじょうあと)」のようだ。 地元(合併により現在はいちき串木野市)のウェブサイトは、遺跡の概要をこう記載している。

――上城詰城跡は市来氏関連の中世山城で、鍋ヶ城跡の出城であると考えられている。現在は堀切や土塁、大手門など遺構が残っている。当城は、県営農村活性化住環境整備事業により発掘調査がなされ、掘建柱建物跡や13世紀から16世紀の貿易陶磁や滑石製品、火縄銃の弾丸等が出土している。また、地鎮祭などを行なったと考えられる祭祀遺構も検出された。その他旧石器時代から平安時代までの遺物も検出されている。特に旧石器時代の遺構(土坑)が台形石器を伴い、2基検出されたことは特記すべきことである。――

 同サイトには、(地名の由来)でもある「市来氏」は惟宗姓を持っていたこと、同じ姓を持ち後から地頭として赴任してきた島津氏と張り合い、時代によって敵となり味方となって市来を統治し続けたが、寛正3年(1462年)島津氏により滅ぼされたこと、なども記載されている。

 つまり、遺跡は地元の最大勢力である豪族の出城の跡だったということのようだ。この遺跡はどんな経緯で発見されたのだろう。ミヨ子たち地元の主婦はどうしてここの発掘作業に携わることになったのだろう。

 そのあたりを少しでも知ることができないかと、二三四は報告書を読んでみることにした。

《参考》
いちき串木野市>歴史と由来・民俗(3)


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