文字を持たなかった昭和523 遺跡調査(5)別の遺跡か?

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、遺跡調査について書きつつある。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、母親が遺跡発掘の「パート」に出ていたことを忘れていた二三四(わたし)が、ある時たまたま行った地元の郷土資料館の展示にミヨ子の姿を発見したこと、遺跡は瀧之段遺跡と名付けられていたことなどを述べた。

 古代史や考古学はあまり得意でない二三四は、本テーマを書くために地元の教育委員会がまとめた報告書をインターネットで探して拾い読みしていたが、最後のほうを読んではたと困惑する。

 学術的な記述に終始した報告書のあとがきは、作業の苦労が偲ばれる人情味あふれる文章が綴られていた。その下に<発掘作業員>の名前が並んでいる。一見して地元に多い苗字の女性ばかりだ。そしてその中に、ミヨ子の名前はなかったのである!

 これはどうしたことだろう――。20人弱の女性の名前を眺めながら二三四はしばし考えた。報告書の図版のページには発掘風景もいくつかあるが、細かな発掘作業に携わっていたのは明らかに女性たちで、ここに名前がある方々だろう。もしかして短期間だけ参加した人もいるのかもしれないが、フルネームでわざわざ記載されているのは、調査責任者の厚意と謝意ゆえだろうし、おそらく関わった「パートさん」の名前は全員載っているはずだ。

 苗字を見ると、明らかに遺跡のある「川上地区」に多いものが含まれる。そのあたりの違いは、同じ町(自治体)内でも明確だったことを、二三四は覚えている。

 よく考えれば、同じ町内とはいえわざわざ別の地区からパートさんを雇って発掘してもらわなくても、昼間の時間に融通が利く主婦は、山あいのこの地区にもある程度はいただろう。人海戦術をかける規模の作業でもない。つまり、(パートの)発掘作業はこの地区の方々だけで完結していたのだ。

 と、いうことは。

 郷土資料館の展示写真で二三四が「ミヨ子さんだ」と思ったのは別人だったということか。

 しかしここでひとつの疑問が生じる。ミヨ子は確かに一時期、遺跡の発掘作業に出かけていたのだ。いったいあれはどこだったのか。

 人口7000人にも満たない小さな町に、そんなに多くの遺跡があるのか、という疑問とともに、二三四はもう一度地元自治体や教育委員会のホームページを検索することになった。

《主な参考》
全国遺跡報告総覧>落シ平遺跡・瀧之段遺跡・才野ケ原遺跡 - 全国遺跡報告総覧 

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