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文字を持たなかった昭和525 遺跡調査(7)上城詰城跡①

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、遺跡調査について書いてきた。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、娘の二三四(わたし)はある時地元の郷土資料館の展示にミヨ子の姿を発見したこと、遺跡は瀧之段遺跡と名付けられていたこと、しかしネットで探し当てた報告書の作業協力者の欄にはミヨ子の名前はなく人違いだったらしいことなど。

 そこで再び地元の遺跡を探し「上城詰城跡」という遺跡にたどり着いた、というのが前項のお話。

 その先へ進む前に述べておきたいことがある。

 遺跡の詳細については発掘調査に関する報告書を参考にしているのだが、報告書は地元の関係先のウェブサイト等ではなく、奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」というサイトに掲載されていた、ということ。「(5)別の遺跡か?」に《参考》として付記したウェブページもこちらのものだ。探していた遺跡の報告書が全ページ(おそらく紙の報告書をスキャンしたものが)掲載されており、とても重宝した。謝意とともにご紹介しておきたい。

 さて、探し当てた報告をもとに遺跡の場所を確認した。

 すると、なんと! ミヨ子たちの家、つまり二三四の実家のすぐ上のほうだ。一族の家も集まる一帯を縫う坂を上っていくと墓地があった。山の上のその墓地は通いづらく、ある時期に墓地全体を下のほうへ移し、もっとあとになってそのお墓のほとんどは地元のお寺の納骨堂に移ったのだが、昔の墓地があったあたりである。

 報告に記載された地番を見ただけでは「家から近いなぁ」ぐらいの感覚だったが、報告の図版にある上空からの写真を見てはっきりわかったのだった。(本項のトップ写真に使っているもの。手前側平地と山へ登っていく辺りが集落で、樹木で見えないが坂の途中にミヨ子たちの家がある。)

 報告に記された遺跡の名称には「上城詰城跡 Uenjhou Tumenjhou ato」とローマ字読みが振ってある。日本語だと「うえんじょう つめんじょう あと」だが、これを地元では「うえんじょ つめんじょ」と呼んでいた。

 「上城詰城」が正式名で「うえんじょう つめんじょう」と呼ぶべきところを、鹿児島弁の習慣で縮めて呼んでいたのか。山の上のほうの城だから「上の城(上ん城)」であり、本城の詰め所的な城だから「詰めの城(詰めん城)」と、地元の人が呼び始めたのか。どちらが先なのかはわからない。

 ただ、ミヨ子たちの集落を含む地域の人々は、昔からここを「うえんじょ」「つめんじょ」と呼んでいた。その二つをどう区別していたのか、二三四自身定かでない。地元の歴史に詳しい人がいればぜひ聞いてみたいと思うようになったが、暮らしていた頃はまったく興味がなかった。「ずっと昔からそう呼ばれていた」という程度の認識で、身近過ぎて興味を持つこともない、というのは往々にしてある話だ。ミヨ子を含む地元の大人たちも大同小異だっただろう。

 しかしそこは、旧石器時代から中世にわたる遺跡だったのである!

《参考》全国遺跡報告総覧

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