字を持たなかった昭和461 困難な時代(20)離婚すれば?

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書いている。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方、支出の抑制には限界があり家計は八方ふさがりで、少しでも現金収入を得るために、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 前項では、高校生だった二三四が、母親は住み込みで働き固定の収入を得て、自分は母親といっしょに住んでそれを支えるというのはどうか、と考え始めたことを書いた。

 そんな考えはもとより現実的ではなく、むしろ妄想に近いものではあったが、困窮生活の張本人としか思えない父親と日々顔を合わせなければならないだけでなく、その顔色を窺わなければならない生活は、息がつまりそうだった。ある日二三四はミヨ子にそっと言った。
「お母さん、離婚すれば? 離婚して、旅館でもどこでも住み込みで働いて給料をもらえば、いまより生活は楽だと思う」

 ミヨ子は、娘からのそんな「提案」に意外そうな反応は見せなかった。が、
「働くと言ってもできることは限られるしね。だいたい、お父さんを一人にするわけにいかないでしょう」
と呟いた。

 経済的な問題以前に、ミヨ子は夫から離れることなど考えていなかった。というより、夫婦になった以上別れるなど考えられなかったのだ。それが、昭和一桁生まれの(戦前の、と言っていいかもしれない)結婚観であり貞操観でもあった。とくに地方の、とりわけ鹿児島の、なかでも農村部においては。

 それに、学歴がなく〈196〉人生における労働経験のほとんどは農作業であるミヨ子が、直接収入を得られる手段らしい手段を持っていないのは、人生経験の浅い娘の目からも明らかだった。「手に職をつける」というのは、昭和の時代人生を主体的に生き抜くための必須条件であり目的でもあったが、ミヨ子の手に何かあるとすれば野菜作りのノウハウで、畑がなければ実現できない技術だ。そして畑(や田んぼ)は夫の持ち物だ。簡単に言えば、ミヨ子は経済的な自立は望めないということだ。

 二三四は、女性が自立できないことの悔しさを、実例を以て学んだ気がした。そして、自分は絶対経済的に自立するのだ、そのためにちゃんと勉強しなければ、と深く深く心に刻んだ。

〈196〉「学歴はいまでいう中卒だ」というのがミヨ子の説明だった。「学び」の年代がほぼ戦中と重なったミヨ子の子供時代は「十三(学校)」「十五(戦時中)」などで、戦中から戦後直後の教育制度については「十六(義務教育)」で述べた。


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