文字を持たなかった昭和460 困難な時代(19)固定の収入があれば!

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書いている。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり家計は八方ふさがりだったこと、ツケで買い物することも多い中、娘の二三四(わたし)の学費もけっこうな負担になったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 そんな苦しい生活の中少しでも現金収入を得るために、ミヨ子は多めに季節の野菜などを植えて隣町の市場へ自転車で運んだことを前項で触れた。地元の農協でなくそこでなら、夫である「二夫(つぎお)さん宅の」奥さんではなく、ひとりの農家として評価と対価を得られことも。

 しかし、収穫物を自転車に積んでいくぐらいでは、どんなに頻繁に通ったとしても「売上」は知れている。農作業の都合や天気次第では何日も行けないし、市場通い自体二夫(父)の様子と機嫌を伺いながらだった。

 高校生の二三四は、母親がやりくりに苦労していることは当然知っていたし、一方で父親が抜本的な対策を講じようとしていない(ように見える)ことに不信と反感を感じてもいた。困窮の原因は「そもそもお父さんが始めたキュウリなのに」という恨みの気持ちも強かった。

 そんな「張本人」に対して強く言えず、自分が辛抱することでなんとか帳尻を合わせようとしている(ように見える)母親に対しても、二三四は焦れた。

 二三四は当時の国鉄鹿児島線で「汽車通学」していた。自宅から自転車で10分ほどかかる最寄り駅から1つ目のY駅は、ミヨ子が自転車で通う市場がある温泉町にあった。通学でY駅が近づいて停車し、旅行鞄を持った温泉客が乗り降りしたあと、駅舎やホームが遠ざかっていくのを見ながら、二三四はぼんやり考えた。
「Y温泉なら、女性が住み込みで働けるお店か旅館があるんじゃないかしら」

――もしお母さんとわたしだけなら、住む場所さえ確保できればそんなにお金はいらないはず。お母さんが働いて、わたしはご飯の支度や掃除をしよう。いまもやってるから基本は変わらない。お父さんの顔色を伺って市場に行けないなんてことはなく、定期的に決まったお金が入ってくる。何をするにもお父さんに気を使わなくていい。お父さんが作った借金はお父さんが返すのが筋だけど、お母さんが稼いだ分から協力してやってもいいかもしれない。住むところさえ解決できれば、スーパーのパートでもいいんじゃない?――

 二三四の中で、この困窮した気づまりな生活から逃れるためには、父親という束縛から逃れるという手段もあり得るのでは? という考えが、徐々に形を作りつつあった。

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