文字を持たなかった昭和 十六(義務教育)


 母ミヨ子の戦時中の生活まで書いた。順番からいえば次は終戦なのだが、ミヨ子が過去断片的に語ったことを総合すると、終戦以前に働き始めている。昭和5年生まれ(戸籍上)なので終戦時点でまだ15歳のはずなのに、それより前に? と思うのは戦後の学制を基準にした感想なので、戦中までの学制をおさらいしておこうと、自分なりに調べてみた。

 近代日本の産業や外交、軍事等各方面における快進撃(と例えてみる)は、明治以降の教育の普及に負うところが大きい、とはよく言われることだが、一般庶民の生活水準(収入)がまだまだ低かった時代、近代的な概念での学校(とくに児童対象の尋常小学校。以下、小学校)に、すべての家庭の子供が通えたわけではなかったことは想像に難くない。教育制度の開始当初、子供への教育年限は8年であるものの最短16カ月でもよいとされ、学校に通学せず家庭などで相当の教育を受けた場合でも教育を受けたと見做された。明治19(1886)年に「義務教育」という文言が初めて使われ、その前も後も、日本と日本を取り巻く世界情勢の変化に応じて、政府はたびたび教育制度を改変し、昭和に入る前に、義務教育は小学校6年卒業までと規定された(明治40(1907)年、第5次小学校令)。

 その次の改変は、昭和16(1941)年の「国民学校令」になるので、ミヨ子は小学校の6年間が義務教育だった時代に入学し、在学中に学校が「国民学校」に改称され、国民学校を卒業したことになる(早生まれのため昭和11年入学、昭和17年卒業、のはずだ)。

 尋常小学校が国民学校に改められたのには、戦時体制への国民の協力を得るには児童生徒への教育が重要と考え、国民としての意識を高める教育を施す目的があったようだ。名称まで変更しなくても、と戦後の我々は思うし当時も議論があったようだが、「名は体を表す」ということだろうか。

 「国民学校令」では、名称変更以外にもいくつかの画期的な制度改変がなされた。ひとつは義務教育期間の変更で、期間は8年(国民学校初等科6年、高等科2年を卒業するまで)とされた。ただし、戦時下という状況から高等科2年の義務教育の実施までは移行できず、「義務教育期間6年」が終戦まで続くことになる。

 もちろん、義務教育期間を終了後、さらに上の学校へ進学する――言い換えれば、上級学校への進学を負担できるような経済的余裕のある家庭の――子供も一定数いたが、暮らしていくのに精一杯の家庭では、義務教育終了=就業あるいは自立、もしくは家業の手伝い、だったはずだ。

 そしてミヨ子もその一人だった。わたしには「いまでいえば中卒かね、義務教育までは学校に行ったから」と語ってくれた。昭和17(1942)年3月、戸籍上は12歳になったばかりのミヨ子は、学校に通う子供から家計を支える働き手に変わった。

「学校系統図」

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《出典》文部科学省白書「学制百年史」

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