文字を持たなかった昭和 十五(戦時中)

 昭和5(1930)年生まれの母ミヨ子の世代は、物心ついてから長じるまで戦争の最中にあった世代でもあった。わたしは母親の子供の頃のことをあまり尋ねる機会がなかったが(※19)、会話が続くことの多かった父が先に亡くなったあとようやく「母親にも聞いておかねば」という気持ちになり、戦時中の様子を尋ねたことがある。が、ミヨ子の話はぼんやりしたもので、書き止めておきたいという気にあまりならなかった。それでも印象に残ったことがいくつかある。

 戦争が始まったあとも、ミヨ子自身は生活に大きな変化を感じなかった。それもそうかもしれない。もともと、自分たちが食べる分をなんとか確保しつつのつつましい暮しだったのだから。父親が軍属として外地に赴いている間は、仕送りが期待できると同時に、農作業のすべては母親や長女のミヨ子ら残された家族が担った。戦争があってもなくても、生活が厳しいことに変わりはなかった。

 それでも世間の様子には少し変化があった。ミヨ子が覚えているのは、兵隊さんが民家に滞在することがあったことだ。ほとんどが農家である集落内の比較的大きな民家1軒ごとに、兵隊さんが数人ずつ割り当てられ、宿を提供した。兵隊さんたちは一定期間滞在後、全員で移動していった(※20)。兵隊さんはいろいろな地方から来ており、耳慣れない訛りで話す人たちもいた。滞在先の集落の人々にはみな親切で、兵隊といっても怖い印象はなかった。

 学校生活にも変化が及んできた。物資が乏しくなる中子供たちも作業に動員された。ミヨ子が生まれ育った町は海に面しており、通っていた学校の裏手に松林があってその先が浜辺だった。航空用燃料の原料として供出するため、授業はせずに「松根油(しょうこんゆ)(※21)」を採取にいくことしばしばだった。ミヨ子は「松ヤニを集めた」と記憶している。

 子供の手で松ヤニを集めてもどれだけの量を採取できたのか、それがどのくらい役に立ったのか甚だ疑問だが、当時は全国民が全力で戦うことを求められ、かつ協力を惜しまない――少なくとも表面上は協力せざるを得ない――状況であったということだろう。そして、松根油集め以外にもさまざまな勤労奉仕があったのだろう、ちゃんと授業を受けたような記憶がミヨ子にはない。
 
※19 もっと言えば詳しく聞きたいという気持ちがなかった。そのことをいまは後悔している。
※20 部隊単位で移動する途中に適切な宿営地がない場合、一時的に民家に投宿したのではないだろうか。それぞれの家では食事も提供した。民家には食事代が支給されたと聞いたような記憶もある。いずれにしても当時の軍隊の民家利用の制度についてまだ調べられていない。自分としての課題だ。
※21 ネット情報によれば、松根油は松ヤニではなく、伐採した松の根から採取するもので、それも10年以上経過した松の根でなければ効率が悪かったようだ。そして「実際に航空燃料として利用された記録は無いようである。」!
《参考》
22.松根油(しょうこんゆ)を訪ねて|ハリマ化成グループ 
(ほかにも太平洋戦争中の松根油採取に関する記述があるサイトが散見される)

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