文字を持たなかった昭和 八(軍属)

 「七(貧しさについて)」で、ミヨ子の父直次が軍属として働いていたことに触れた。わたしの記憶では、中国の海南島に行っていたという。軍属として赴いた先が海南島だけなのか、その1回だけなのかは確かめようがないが。

 海南島は広東省の南、ベトナムの東にある九州よりやや小さい島だ(※10)。日本軍の大陸進出が語られるとき、海南島の名前が出ることは多くないと思う。直次の場合実兄が帝国海軍の軍人だったため、その伝手で海南島に行ったのかもしれない。軍属として行った先では、たとえば軍の施設を造るといった、軍隊の行動を助けるためのさまざまな作業をしたのだろう。あくまで民間人なので基本的に戦闘行為は行わないにしても、戦闘に巻き込まれることはあったかもしれない。

 海南島で思い出した。「四(誕生)」でふれた赤ん坊のミヨ子の写真のことだ。「あの写真は海南島に軍属として行っていたじいちゃんに送るために撮ったらしい」と、ミヨ子が語っていたことを。

 芋づる式に記憶が甦る。直次の家(ミヨ子の実家)は、実兄の屋敷の裏手にあった。「六(長女)」で書いた、幼いミヨ子が水桶を担いで登った短い坂は、直次の兄の家から上がっていく坂だった。つまり兄弟は坂の上と下に住んでいたことになる。2軒の屋敷はもともとひとつで、親から相続したものなのかもしれない。

 終戦まで海軍軍人だった直次の実兄(わたしから見ると伯祖父)のほうは、退役後どんな仕事をしていたのか確かめたことはないが、軍人恩給で保障される生活は、子供のわたしから見てゆとりがあるように感じた。祖父母の家に遊びにいくときは、「じいちゃんのお兄さんの家だから黙って通り過ぎたりせず、もしいなかったとしても、玄関先では外からちゃんと声をかけるように」と言われていた(※11)。声をかけた結果在宅で、玄関先であいさつだけすることもあれば、座敷に上がるように云われお茶をご馳走になることもあった。立派な掛け軸や置物が並ぶ床の間に、緊張と若干の羨望を覚えたものだ。その時はあまり感じなかったが、祖父(直次)の生活条件とは相当の開きがあった。周りの大人は、軍人だったことにその「差」の原因を求めていたように思う。

 軍人と軍属。同じ目的のために行動を共にし、ただ役割が違ったわけだが、立場、社会的地位、その後の保障はまったく違った。兄弟であっても。そのことを、本人たちはどう受け止めていたのだろう。

※10 広東省の一部だったが、1988年省に昇格、現在は海南省。
※11 両親から言われていたことだが、当然の礼儀だと受け取っていたと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?