文字を持たなかった昭和462 困難な時代(21)公的支援について

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方、支出の抑制には限界があり家計は八方ふさがりだったこと、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親が住み込みで働いて固定の収入を得て、自分は母親といっしょに住んでそれを支えるというのはどうか、と考え始めたことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 ミヨ子が夫と別居するなど妄想に近い話ではあったが、二三四は妄想ついでに離婚の提案までしたものの、昭和一桁生まれどうしの農村の夫婦に「離婚」はあり得ない。あり得るのは、少なくとも表面的には従来どおりの生活を続ける、という選択肢だけだった。もちろん、従来どおりの家族という「形式」もそこには含まれた。

 一年四季は、以前と同じように巡ってくる。以前と同じように農作業をし、同じくらいの収穫と収入を得る。季節ごとの行事も同じように繰り返す。「伝統の」といえば聞こえがいいが、手間と時間がかかる料理や菓子をその度に 手作りする。日々の食事も家事も、同じように繰り返される。家事はずいぶんと「電化」され便利な生活用品や手軽な食材も増えたが、それらはすべてお金と引き換えだ。そもそもハウスキュウリの負債を抱え、収入の一定程度を返済に充てなければならない生活では、以前と同じように暮していても、困窮の度合いは高まっていた。

 それでも、たとえば生活保護を受けるなどの公的な支援を求めるという発想は、家族の誰にもまったくなかった。家族だけでなく、地域の誰にもなかっただろう。

 いまでこそ、とくにコロナ禍以降、生活が困窮したら支援を求めていいのだ、と政府のほうから言うようになったが、支給条件をクリアするのはけっこう難しいと聞く。「人に迷惑をかけないように」と教えられて育つことの多い日本では、公的な支援を求めにいく心理的ハードルはもともと 高い。

 まして当時――概ね1970年代後半――の地方、しかも周囲はすべて顔見知りに近い農村にあっては、二夫もミヨ子も、知り合いだらけの役場に支援を求めに行くなど「恥ずかしくてできな」かっただろう。そもそも、土地や農機具といった生産手段がある。少なくとも食べるぐらいはなんとかなる(はずだ)。親が残した田畑や土地があるのに、生活を立て直せないはずがない。

 と、本人たちはもとより周囲も考えていたとしてもおかしくはなかった。


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