文字を持たなかった昭和417 おしゃれ(13) スカートの裾

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「毛糸」と呼んでいたニット製品の中でも印象的だった「チョッキ」カーディガンブラウスなど、よそ行きにしていた服について書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 前項で、やはりよそ行きだった緑色のスカートのことを書いていて、思い出したシーンがある。

 農作業に追われ、めったに「お出かけ」しないミヨ子がよそ行きに着替える機会でもっとも多かったのは、病院だった。それも自分の体調は二の次で、子供たちの具合が悪いときにほぼ限られた。最初の子を死産で亡くしたあとの子は待望の男の子で(兄である)、よく熱を出した。下の子(わたし)は丈夫だったが、いやしんぼなのか勝手に何かを食べてはときどきお腹をこわした。

 その都度かかりつけの病院で診せるために、ミヨ子はどちらかの子供といっしょに温泉街のある隣り町までバスで向かった。そのときは、おしゃれとまで言えなくても、それなりの服を着て行った。寒い時季でなければ、ふだんめったに穿かないスカートを穿くこともあった。

 その日も、二三四(わたし)はお腹をこわしていた。グレーの口ひげをたくわえたやさしいY先生に診察してもらい、先生が「しばらくはおかゆを食べさせるように。ヤクルトは、飲ませていいですよ」と自分の母親に言うのを聞いて「またおかゆか」とがっかりしたあと。

 ミヨ子は薬をもらいに行った。いまのように医薬分業でなかった当時は、どんなに小な病院でも薬を処方したから、薬は病院の窓口でもらうものだった。
「ありがとうございました」
と母親が言ったように思い、これで帰れる、と小さな二三四はスカートの裾をつかんだ。今日いっしょにバスに乗ってきたおかあちゃんのスカートの。

「あら、おかあさんと間違えたのかしら」
やさしいきれいな標準語が頭の上から降ってきた。驚いて見上げると、スカートを穿いているのはぜんぜん知らない、誰かのおかあさんだった。

 あわててスカートから手を話すと、ほんとうの(?)母親のほうが駆け寄ってきた。
「スカートが似てたから、間違えたんだね」

 気恥ずかしさと、安堵と。帰りのバスの中では気まずかったが、ミヨ子はいつものように、バスに乗ったとたんにうつらうつらし始めた。スカートの色は、あの誰かのおかあさんのとやっぱり似ていた。

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