文字を持たなかった昭和280 ミカンからポンカンへ(3)ミカンの仲間
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)背景ではミヨ子が嫁いだ頃に行ったミカン山の開墾(開墾1、開墾2)、せっかく始めたミカン栽培を転換するようになった経緯を書いたが、(2)嫁の意見では視点を変えて、嫁であるミヨ子が経営方針決定の折々でどう関わったのか考えてみた。
話を戻し、ポンカン栽培への転換について。
と言っても、子供だった二三四(わたし)にとって、ミカンがポンカンに変わった頃の記憶は具体的ではない。毎年ミカンを作り、というよりミカン山にミカンが「生り」、秋から冬にそれを収穫、出荷するのを当たり前に思っていたところへ、「ポンカン」という耳慣れない果物を「作ることにした」と聞かされる間もなく、ポンカンが「生って」それを出荷するようになったからだ。少なくとも、経営変更について家族どうしで語った、記憶に残るほどの場面はなかったのだと思う。
そもそもポンカンという果物自体は知らなくても、「ミカンの仲間」と言われれば、栽培にそれほど大きな支障があるようには思えなかった。家の庭にもボンタン(文旦)やタチバナ(橘)などの柑橘が植わっており、ミカンの仲間が増える程度の印象だった。
もちろん、「ポンカンを植える」と聞かされたミヨ子の第一印象は想像しようがない。ただ(2)嫁の意見で述べたように、夫が決めたのなら、と考えたことは想像に難くない。
ポンカンという未知の柑橘について、二夫(父)が説明したことはなんとなく覚えている。それは、これからポンカン栽培を始めるタイミングだったか、大人どうし、同業者つまり農家どうしがわが家に集まって雑談していたときだったか、はたまたのちに述べるような、家族総出での出荷準備の際中だったかは思い出せない。
二夫は、ポンカンはもともと台湾で作られていたこと、その後屋久島に伝わって作られるようになったこと、果物としてのミカンはかなり競争が激しくなってきたので――という趣旨をもっと簡単な言い方で――、別の種類の、しかしいまあるミカン山で作れる果物としてちょうどいい、などを話していた。
同じ鹿児島でも天気予報ぐらいでしか聞いたことのない「屋久島」という名称が、とても新鮮だった。ミヨ子にしてみれば、のちに妹がそこへ嫁ぐことになろうとは思いもしないほど、遠い土地だ。まして台湾と言われても、家族のだれもがピンと来なかった。