文字を持たなかった昭和 三十九(開墾2)

 のちにわたしの母となるミヨ子の嫁ぎ先では、山林をミカン山に変える開墾作業が始まった。姑のハルやミヨ子自身も加わったとはいえ、男衆ほどの力仕事はとうていできない。掘り起こした木の根を片づけたり、木の根のあとの穴をならしたりといった比較的軽い作業を任された。

 農機具などは全くない時代、軽めの作業といっても鍬を持っての手作業である。腰を曲げて俯きながらひたすら鍬を振るう。完治したとはいえ、つい数年前まで結核で入院していたミヨ子には、厳しい作業だったはずだ。

 作業そのものも厳しかったが、より辛かったのは、舅の吉太郎も姑のハルも体が丈夫だったため、疲れても「休みたい」と言えないことだった。ひとたび作業が始まると、お茶やお昼の休憩を除くと働きづめだった。

 さらに、吉太郎もハルも、それまでの人生経験から倹約をモットーにしていた。作業は基本的に人力に頼り、軍手や地下足袋(ぢかたび)のような体を保護するものも使わなかった。素手に、せいぜい自分で編んだわらじである。「体は汚れたら洗えばいいが、手袋や地下足袋は繕ったり買い直さないといけないからもったいない」と吉太郎たちは考えていた。いや、昭和30(1955)年前後の地方の農村では、作業の際手足を保護するという感覚がまだ希薄だったのかもしれない〈55〉。

 ミヨ子も毎日埃だらけ、泥だらけになって働いた。結婚前は工場勤めが長く色白で、郷里に戻ってからは近隣の男性の憧れの的になるくらいの器量よしだったミヨ子も、たちまち日焼けしていった。

〈55〉インターネットで「昭和20年代」「農村」の画像を探すと、ゴム長の人もいるが草履(わらじやゴム草履)の人が多い。草履はすぐ脱げてしまうので、裸足で作業した人もいただろう。なお検索対象を「昭和30年代」にすると、カラー写真が増え農機具も混じってくるため、山林を開墾した本文の状況は「昭和20年代」に近いと思われる。

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