文字を持たなかった昭和 三十八(開墾1)

 舅の吉太郎が買った山林をミカン山に変える作業が始まった(ミヨ子と二夫(つぎお)の結婚後だったのか、それより前なのかは確かめれられていない)。

 前回の「三十七(山林)」を書くに当たって、当時の農業政策や果樹栽培について多少調べたとき「そういうことか」と得心が行ったのだが、果樹の育成には日照の確保のために適度な傾斜があることが理想で、実家の山林はなるほど日当たりがよかった。ただし、元々は山林である土地にミカンの木を植えるためには、山肌を大きく変えたはずだ。

 これから書くことは、終わりのほうの見聞を除いてほ、自分の記憶から遡った想像である。

 山に元々生えていた雑木は、切り倒す必要があった。これは大変な作業で、かつ専門の工具が必要だっただろうから、知り合いを通じて林業を営む人に依頼したことだろう。切り倒した木々も、大きくて自分たちでは運べないものは引き取ってもらったかもしれない。昭和30(1955)年頃なら、値段はともかくまだ売れたことだろう。自分たちで運べるくらいの大きさの木は短く切って、枝などとともに焚き木や農業用の資材として使っただろう。

 地面から出ている幹から上の部分はそうやって処理できても、ミカンの木を新たに植えるには、根っこも当然なんとかしなければならない。そこで「開墾」である。深く張った木の根を、吉太郎以下家族が、人の手でこつこつ掘り起こしていったのだ。

 子供だったわたしの記憶ではその広さをどのくらいと表現できないのがもどかしいのだが、たとえば、都会で貸し出される家庭菜園の1区画や2区画といった単位ではない。子供の目には「見える範囲の山肌に全部ミカンが成っていた」ぐらい、広かった。その土地を人力で開墾したのだと、あとになって知り驚いた。

 木の根を掘り起こしたあとの地面もただ均すのではない。ミカンの木を植えたらその先の作業も効率よくできるよう、傾斜のある山肌を段々畑状態に造り直さなければならない。段を造ったら、土が流れないように石垣で止める。だからミカン山は、下から見るとミカンの木の間に石垣が見え、それが上のほうまで続いていた。その石垣も、吉太郎や夫の二夫が石を運んで組んだらしい。ある意味どれだけ原始的な作業だったのか、気が遠くなる。

 その原始的な作業に、姑のハルもミヨ子自身も加わったのだった。

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