文字を持たなかった昭和511 酷使してきた体(23)乳がん、ご近所さんの場合

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
 
 このところミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。直近では、平成25(2013)年頃80歳を過ぎ一人暮らしをしていたミヨ子に乳がんが見つかったことと、手術と入院中の様子、離れて住んでいた娘の二三四(わたし)は入院先へお見舞いの手紙をしばしば送ったこと、退院後は息子家族のサポートを受け、ついには術後10年目の検査も問題なかったことなど、順を追って述べた。

 ここでは、同じ乳がんでもミヨ子と同じ集落に住んでいた女性のケースについて述べてみたい。

 その女性――ミツヱさん、みんなはミッちゃんと呼んでいた――は、大正生まれでミヨ子より10歳ほど上だった。同じ姓で比較的近い親戚でもあった。ミツヱさんの家は、ミヨ子たちの家(つまり二三四の実家)から徒歩2分ぐらいと近く、ご近所としても親戚としても親しくつきあっていた、と言っていい。

 このミツヱさんとのおつきあいについては、ミヨ子夫婦のみならず二三四にもその時代、その地域ならではのさまざまなエピソードがあるが、それはいつか書くことにして。

 ミツヱさんはずっと独身だった。二三四が知る限り、元気な頃は土木作業に出ながら小さな畑で自家用の野菜を作っていた。足腰を悪くして働きに出られなくなってからは――多分年金をもらう年齢にもなっていた――、段差が少なくなるよう改装した自宅で、自分のご飯を作る以外は寝たり起きたりテレビを見たりと、悠々自適に見える暮らしをしていた。

 ミヨ子たち近所の人は家の前を通るとき
「ミッちゃん、おいやっなー?(いらっしゃる?)」
と声をかけた。家の中に入るわけではなく、中から返事があるのを待って天候の挨拶などして通り過ぎるのだ。返事がないときは、郵便物などが戸口にそのままになっていないか、逆に戸口が開いたままになっていないかそっと様子を窺い、異状がないことを確認するのだった。

 郷里を出た二三四も、帰省の折りミツヱさんに挨拶に行ったし年賀状も出していた。ただ仕事で海外と往来するうちに会う機会は減っていた。そんな折り、ミヨ子から
「ミッちゃんが入院した」
と聞かされた。ミヨ子の乳がんが見つかる何年か前、一人暮らしも難しくなったので老人ホームに入ったが、衰弱してきたので病院に運ばれた、という経緯だったと思う。年齢は80代の後半だったのではないだろうか。「もういい年だものね」と返すと、「じつは乳がんにかかっていたらしいよ」とミヨ子は言った。

 がんは自治体の検査で見つかったのだろう、と当初二三四は思ったが、ミヨ子によればミツヱさんは健康診断をほとんど受けていなかったらしい。胸の異常には気づいていたものの、年も年だしどうせあちこち悪いのだから、とそのままにしていた、と言うのだ。老人ホームに入ったときにはがんが広がった胸のあたりは黒く変色していたらしいが、一人暮らしが難しくなったことや入所後の衰弱の直接的な原因ががんなのかどうかまでは、ミヨ子も知らなかった。

 がんにかかっても、しかも治療せずともある程度までは普通に生活できると知って二三四は驚いた。ミツヱさんの場合は特別なのかもしれないし、がんができる場所や進行速度によっては、そんなケースもあるのかもしれない。

 ともあれごく身近な人たちにも乳がん患者がいることで二三四はがんへの認識を新たにしたのだが、数年後に母親にまで乳がんが見つかるとは考えてもみなかったのである。

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