文字を持たなかった昭和507 酷使してきた体(19)乳がんの発覚 

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
 
 このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。もともとあまり丈夫でなかったこと、体にあった病気などの痕跡、体にも影響を与えたであろう心配性とそこからくる不眠などに続き、働き盛りを過ぎてから自転車で転倒し右手がうまく使えなくなったこと、60代での胆石等など。

 2011年の春先に夫の二夫(つぎお。父)が急逝し、80歳を過ぎたばかりのミヨ子が一人暮らしをしていた頃、ねじれ腸のため食事を十分とれなくなったことも述べた。それと前後して見つかったのが、乳がんだった。

 60代前半で子宮がんが見つかったときは町(ちょう。自治体)の健康診断がきっかけだったが、乳がんも同じく「町の健診」で再検査になったという。若いころに結核を患ったミヨ子は、医療信仰、医師信仰が篤く(?)、ことに年をとってから機会があるたびに検査を受けたがったし、ちょっとした不調でも病院に行きたがった。このときも検査好きが奏功したと言えなくもない。

 「(12)子宮がん」で書いたようにミヨ子は子宮を全摘したが、術後数年にわたる定期検査を経て、もうがんの不安からは解放されたはずだった。なのにまたがん、それも(ほぼ)女性に特有のがんである。

 離れて暮らす娘の二三四(わたし)は、電話でミヨ子から「乳がんが見つかって、手術することにした」と聞かされたとき、もちろん驚いたし心配したが、いちばん心配したのは「80歳を超えた体が手術に耐えられるだろうか」という点だった。

 二三四は50歳前後だったが、もし自分だったら、80歳を過ぎてから体にメスを入れるリスクを取るより、がんが老体の中でゆっくり進行するに任せて痛みの緩和だけしてもらい、半ば老衰のような形で最期を迎えるほうを選ぶ、と明確に思った。

 ただそれは二三四の考え方である。80歳を超えていても手術を受けて病の原因を取り除こうと思っている――前向きに考えている、ともいえる――母親に、「もういい年なんだから手術まではやめておいたら」とはとても言えない。

 入院先は隣の市にあるK病院だという。自治体の健康診断から再検査の流れでそうなるケースが多いのだろうが、近隣で乳がんと言えばK病院で手術する人がほとんどだった。「〇〇さんもKだった。そういえば△△さんも…」となれば、人間関係が濃密で口コミ評価が絶対な「田舎」では絶大の信頼を醸す。まあ、それはそれでいいとして。

 80を過ぎた一人暮らしで手術・入院の手続きや準備は大丈夫か、入院期間はどのくらいになるのか、付き添いは必要なのか、などなど娘として気になる点がたくさんあった。首都圏で仕事を持っている二三四は、そうそう気軽に帰省できない。そもそもペーパードライバーだから、かえって足手まといになる可能性がある。

 幸い、手術の日と最初の何日かは息子(兄)のお嫁さん(義姉)が付き添ってくれることになった。息子のカズアキも交代でお見舞いに行くという。二三四も入院中どこかのタイミングで数日帰省する予定を立てて、成り行きを見守ることにしたのだった。

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