文字を持たなかった昭和509 酷使してきた体(21)乳がん余談、お見舞いの手紙

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
 
 このところミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。直近では80歳を過ぎ一人暮らしをしていたミヨ子に乳がんが見つかったことと、手術と入院中の様子を述べた。平成25(2013)年頃のことだ。

 ミヨ子の手術は成功したし回復も順調だったがけっこう長く入院していた記憶がある。というのも、二三四(わたし)は入院先の病院にかなりの回数手紙を送ったからだ。

 本項を書いていて思い出したのだが、当時ミヨ子は大きめのテンキーが並んだシニア用の携帯電話を使っていた。夫の二夫(つぎお。父)に先立たれて一人暮らしになったミヨ子に、いざという時のためにと息子のカズアキ(兄)たちが持たせたのだった。カズアキの自宅や携帯、お嫁さんや二三四の携帯など、ふだんミヨ子がかけている電話番号は短縮登録してあった。登録してくれたのはもちろんお嫁さんだ。

 ミヨ子はその携帯電話を入院先にも持って来ていた。もっとも病室で通話はできない。通話可能エリアに移動してからかけるのだ。

 お見舞いを兼ねた帰省休暇を終えて二三四が首都圏での生活に戻り、相変わらず病院気付の手紙をミヨ子に送っていた頃、ミヨ子の携帯電話から電話がかかってきた。ミヨ子から電話をくれるのは珍しい。いや、実家の黒電話からなら時間帯を計りつつかけてくることはあったが、携帯電話からかかってくることはめったになかった。しかも入院中である。

 何かあったのか、と半ば緊張しつつ電話を受けた二三四に、簡単な近況伺いをしたあとミヨ子が言った。
「手紙は、もういいからね。看護婦さんが持って来てくれるんだけど気の毒で…」

 虚を突かれるとはこういう感覚なのだろうか。二三四は近くにいられない分、病身の母親を手紙で見舞い、励まし、気遣っているつもりだった。手紙なら好きなときに何回でも読めるだろう、という気持ちもあった。実家に送れば、カズアキやお嫁さんが気づいて持って行っても数日あとになってしまうから病院気付にしたのだ。病院には事前に問い合わせしたし、何十人もいるわけではない入院患者を回るついでに渡してもらうのが、病院の負担になるとも思えなかったのだが。

「(手紙が届くような)そんな患者さんは、いないし」
ミヨ子は付け加えた。

 生前、娘が書いてよこすものをとても喜んだ父親が亡くなったあと、母親は何をすれば喜んでくれるのか、二三四の心にはいつも迷いがあった。もともと日常的に文字を書いたり文章を読んだりする習慣がないミヨ子でも、入院中なら喜んでくれると思っていたのだが、それも負担なのだろうか。このできごとは二三四のミヨ子への心理的距離を少し遠ざけた。

 もっともミヨ子にしてみれば、ほかの患者さんとは違う扱いをされているようで居心地が悪かったのかもしれない。もっと言えば、手術直後体が思うようにならない状態で、手紙などじっくり読む気分にならなかったのかもしれない。

 それからしばらくして、ミヨ子は無事に退院した。

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