文字を持たなかった昭和508 酷使してきた体(20)乳がん手術と入院
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。80歳を過ぎ一人暮らしをしていたミヨ子が、ねじれ腸のため食事を十分とれなくなっていた頃、乳がんまで見つかったことを前項で述べた。
手術当日のつきそいや入院当初のお世話は、長男カズアキ(兄)のお嫁さん(義姉)が中心になってやってくれた。二三四が休暇をとってお見舞いに行ったのは、手術後10日ほど経った頃のことだ。それまでは、病院気付でミヨ子宛に何回か手紙を出してお見舞いを伝えてあった。
入院先のK病院はミヨ子が住んでいた町の北隣の市にある。乳がん専門というわけではなく消化器外科や内科、小児科などを診る中規模の病院で、入院病棟があるくらいだからそこその規模ではある。ミヨ子のいない実家に帰った二三四は、20分ほどバスに乗ってお見舞いに出かけた。
ミヨ子は4人ほどの相部屋の病室にいた。病室の入口からいちばん近いベッドで、天井から吊るされたカーテンで仕切られていた。部屋の向きのせいか明るいとは言えない病室の中、カーテンを引くと薄暗い感じがした。
「お母さん、お見舞いに来たよ」
二三四は声をかけた。横になっていたミヨ子は薄く目を開け
「あら。休みがとれたの」
と答えたが、声にはあまり力がなかった。それはそうだろう、体の一部を切り取る手術をしてから間もないのだ。それでも少し体を起こし、小さな声で入院してからのことを話してくれた。声が小さいのは同室の患者さんへの配慮でもある。二三四は付き添い者用の小さな折り畳み椅子に腰掛けて、耳を聳てる。
ミヨ子が話してくれたのは、乳がんが見つかったときのこと、手術前後の記憶、左乳房にあったがんを切除するのにリンパのあたりまでけっこう切ったこと、そのため腕がひきつってる感じがすること、などだった。幸い病院で洗濯もしてもらえるようで、その点は便利だと言っていた。
話しているうちにおやつの時間になった。ゆるいプリンのようなお菓子が配られる。お茶が欲しければ看護師さんに言うか、歩ける患者さんは自分で給湯室に注ぎにいくシステムのようだ。お茶がいるかに尋ねると
「少しほしい。あんたもお茶の機械から自分のをもらってきなさい」
というので、ミヨ子の湯飲み茶碗を持って給湯室へ赴く。自分のは備え付けの紙コップにもらう。
小さなサイドテーブルにお茶を置いて勧めると「お菓子はあんた食べなさい」と言う。「わたしはいいよ、お母さん食べて」と返してから、気になっていたことを聞いた。
「病院のご飯はちゃんと食べられてる?」
「(16)ねじれ腸」に書いたように、ねじれ腸と診断されてからのミヨ子は医師のアドバイスを厳密に守り、食べられる物の種類がとても少なくなっていたからだ。食べないと回復はままならないだろう。
「そうね。食べられないものは病院に言ってあるから、出されたものはちゃんと食べてるよ」
とミヨ子。そして「おいしい、ってわけでもないけどね」と声を低めてふふっと笑った。二三四は母親の順調な回復を確信した。
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