文字を持たなかった昭和 帰省余話13~温泉その四

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このことろは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとなどを「帰省余話」として書いている。ミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)の十三回忌のあとには、ミヨ子さんを温泉に連れて行った。

 地元の宿泊施設に泊まり、温泉センターの家族湯(介護湯)で温泉を楽しんでもらおうと、用意周到で臨んだつもりだったが、タッチの差で先客に入られてしまった。ダメ元で2階にある大浴場にトライしたところ、ミヨ子さんは階段を上りきってくれて、洗い場もなんとか確保できた。ミヨ子さんの体を洗ってあげなければ!

 この「市来ふれあい温泉センター」は、どうやら隣にあった国民宿舎が撤去・売却されて新しくグランピング施設ができたのに合わせて経営をてこ入れしたらしく、サービス面でずいぶん以前と変わっている。洗い場にも固形せっけんしか置いてなかったものが、いまは固形せっけん以外に、ボディシャンプー、シャンプー、コンディショナーまであるので、まさにタオル1本あれば入浴できる。これで入浴料は大人300円だからかなりお得だ。しかも、隣の宿泊施設の利用客ならチェックアウトまで何回でも入れる。

 ミヨ子さんは体を洗うのは「せっけん派」なので、シャワーで体を流したあと、タオルにせっけんをつけて首から背中、首からお腹、両腕、両脚と順番に洗ってあげる。だいじなところだけは「自分で洗ってね」と声をかける。顔も、洗面器に汲んだお湯で自分で洗ってもらう。

 浴槽に連れていく前に自分も、と思ったとき、洗い場を譲ってくれた奥さんが浴槽から出てきたようで、声をかけてきた。
「シャンプーまでしたほうがいいですよ。混んでる時間だから、お湯に入っている間に洗い場を取られるかもしれないから」
ひゃー。体を温めてからシャワーしてあげたかったが、急がねば。

 備え付けのシャンプーでミヨ子さんの髪を洗う。ここ数年、帰省して親孝行の真似事で温泉に連れていく度に思うのだが、体はもちろん、頭も小さくなったなあ、と。両手に収まるのではないかと思えるほど小さくなった頭をシャンプーの泡でよく洗う間、ミヨ子さんは両耳を指でしっかり押えておとなしくしている。デイサービスで入浴する際、そうするように教わったのだろう。なんだか切ない。
「かゆいところはありませんかー?」
とおどけて声をかける。

 コンディショナーもしてあげたあと、超速で自分の体を洗う。わたしはもともと体を「こする」習慣はないのだが、いつもよりもっと急いでボディシャンプーを使い、流す。風呂椅子に待たせておいたミヨ子さんの手を取り、持ち込んだ杖も使ってもらって、そろそろと浴槽に向かった。

 ここは大きな浴槽が3つほどと、水風呂、サウナ、そして小さな露天風呂があるのだが、いちばん大きな浴槽に、慎重に入れる。こんなところで転んだとなっては、親孝行どころか、いつも面倒を見てくれているお義姉(ねえ)さんに申し訳が立たない。

 浴槽は入ってすぐのところに段があり、ここに腰かけていられる。肩がお湯から出るが、段を下りるとしゃがむ姿勢になるので、腰かけたままのほうがよさそうだ。自分はしゃがんだり段に腰掛けたりしながら、ミヨ子さんに話しかける。ときどきお湯を肩にかけてやる。ここのお湯は肩まですっぽりつからなくても温まる、ほどほどの熱さでありがたい。

「どう?」と訊くと
「よか あんべ(よい塩梅)」とのお答え。
「デイ(サービス)でもお風呂に入るんでしょ?」と振ると
「お風呂(浴槽)が小さいし、入ってる時間も短いから」
と、すっかりくつろいでいる様子だ。一方のわたしは、まだ髪を洗っていない。ちょっとジリジリしてきた。
「お母さん、もう上がる?」
「いや、まだ大丈夫」

 そう。「じゃあ、髪を洗ってくる!ちょっと待っててね!」と告げて、わたしは急いで洗い場に戻った。幸い洗い場は元のままだ。壁の時計は5時半が近づき、どうやら日曜日の混雑時間はピークを過ぎたらしい。再び超速でシャンプーし、顔を洗う。その間にも2回ほどミヨ子さんの様子を見にいき、声をかける。洗い終えた髪をタオルで巻き、ミヨ子さんのところへ戻る。今度は洗面器も持って行く。

「ごめんね、待たせたね」
と声をかけるが、ミヨ子さんはのぼせたふうでもなく、気持ちよさそうだ。ただ、ずっと露出している肩が少し冷たくなっているので、洗面器でお湯を汲んでざぶざぶかけてあげる。湯煙のなかを行きかう人は、入ったときより目に見えて減っている。夕食の予約時間も気になる。
「お母さん、そろそろ上がろうか」

 ゆっくりと洗い場に戻り、シャワーをかけ、ゆすいだタオルで体を拭いてあげる。自分のほうは、もうだいたいですますしかない。なにごとも、想定したペースでは進まないことを痛感する。

 脱衣場でもまずミヨ子さんをベンチに座らせて、体を拭いてあげる。その間にも、近くの人が「乾いたタオルを敷いてから座ったほうがいいですよ」などとアドバイスをくれる。ミヨ子さんは腕や肩が上がりにくいので、袖を通すのも順番がある。自分はほとんど裸のままで服を着せるのでだんだん体が冷えてきたが、やむを得ない。服を着たミヨ子さんを待たせて、これまた超速で自分の服を着る。肌のお手入れの順番などもうどうでもいい。

 入ってきたときと逆に、大浴場からの階段をそろそろと下りる。下りのほうが心配だが、ミヨ子さんはこれまた思いのほかしっかりと手摺を掴んで、一段ずつ下りてくれた。受付の人が気づいて、他のスタッフに車椅子を持って来させてくれる。ありがたや。

 こうしてなんとか「温泉での入浴」を終えた。わたし自身は、もう何が何だか。そもそも事前に相当下調べしたあの労力はなんだったのだろう。温泉センターからホテルへの戻りも、ドアが開く方向の関係で、車椅子での出入りは行きよりも大変だった。それもこれも「過ぎてしまえば」である。親孝行になったかどうかはさておき、ミヨ子さんを久しぶりに温泉に入れてあげられたことだけは、よかったことにしよう。


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