文字を持たなかった昭和 帰省余話6~十三回忌
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)を中心に庶民の暮らしぶりを書いてきた。
そのミヨ子さんに会うべく先ごろ帰省した折りのできごとなどを「帰省余話」と題して書いているが((1~体調、2~食いっぷり、3~理解力、4~几帳面)、5~おみやげ)、そもそも帰省の大事な目的のひとつは法事だった。
東日本大震災の前の月にミヨ子さんの夫・二夫(つぎお)さん(父)は急逝した。二夫さんの生涯についてもいずれ書くつもりなので、亡くなったときの詳細は措いておくとして。
あれから12年。いつもとても元気だった二夫さんに比べ、体が丈夫とは言えなかったミヨ子さんが、夫を看取ったうえにその十三回忌を営むほど長生きするとは、家族や周囲の誰もが想像していなかった。が、さすがにこの先は厳しいかもしれない。そんな思いもあって、一同が会する機会としての法要を、和明さん(兄)に段取りしてもらったのだった。
2月5日、みんなで檀那寺に向かった。お墓もここにある。昔、家のお墓は集落の中にあったのだが〈141〉、20年ほど前だったか、檀那寺が屋内型の納骨堂を建てるのに合わせて、元のお墓を仕舞って、埋めてあったお骨を納骨堂に移したのだ。法要もここで営まれる。
宗派は浄土真宗(大谷派、東)である。ネット情報によれば、鹿児島は浄土真宗でも本願寺派(西)が多いらしいが、郷里の小さな町にも東西の二つのお寺があり、東の門徒も一定数いるのだと思う。
お寺の本堂に、予約(というのか?)した時間の少し前に、ごくごく身内の何人かが集まった。最近のお寺は椅子を用意してくれているのがありがたい。正面の阿弥陀如来の前にはミヨ子さんと和明さんが座り、ほかの参列者はそれを取り囲むように座った。
時間が来てご住職が現われ、法要の手順について説明された。手順と言っても焼香の作法ぐららいなのだが、宗派によって細かいところが違うので分かりづらい。ことに二三四はわりと最近別の宗派のご葬儀に出たばかりで、そちらの印象に引き摺られてしまう。
読経が始まってしばらくしてから「ご順にご焼香ください」の声がかかった。和明さんがミヨ子さんを焼香台まで連れていく。ほんの数歩なのだが、杖なしで進もうとすると足元が覚束ない。和明さんが支えているから大丈夫かな、と立ち上がるのをためらっているうちに、ミヨ子さんの焼香が始まった。
和明さんはご住職が教えた手順どおりに焼香させようとするが、ミヨ子さんは杖なしで不安定なうえ、両方の手を同時に使っての動作が難しい。
「作法なんてどうでもいいので、拝むだけにさせてあげればいいのに」
と心の中で呟いたが後の祭りだ。
ミヨ子さんにはわたしがついて行くべきだった。そして、ミヨ子さんの分のお焼香もしてあげて「拝むだけでいいからね」と声をかけてあげればよかった。法事は帰省の翌日で、ミヨ子さんの状況も十分把握できていなかったので、和明さんに委ねてしまったのだ。次の機会はかなり難しいことを考えると、少なからず後悔する。
全員の焼香と読経、礼拝など一通りが終わり、説話の時間。ご住職はちょっとしたエピソードを交えて仏縁についてお話しになる。ミヨ子さんはどのくらい理解できているかなぁ、とちらちら見ると半分目をつぶっている。眠くなるよね、そりゃ。
それでも「こうして皆さんが一堂に会されたのも、亡くなられたお父様がつないでくださったご縁の賜物、すなわち仏縁です」という締めくくりには納得する。
じつはミヨ子さんは時間、年月の感覚がかなり鈍ってきているようで、二夫さんが亡くなっていることは認識していても「十三回忌」という数字についてはピンと来なかったり、教えても忘れたりしていたらしい。90歳を超えるとそうなるのかもね、とも思うし、こうして法要にまで来られたこと自体ありがたい。
法要のあとは全員で納骨堂(のわが家の区画)をお詣りした。生花は供えられないので、いつも小瓶の焼酎や日持ちするお菓子などをほんの少しお供えする。「仏縁」という言葉が心に浸みた。
〈141〉以前のお墓については「百四十五(お盆、その五)」で少し触れた。
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