752 文字を持たなかった昭和526 遺跡調査(8)上城詰城跡②

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、遺跡調査について書いてきた。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、娘の二三四(わたし)はある時地元の郷土資料館の展示にミヨ子の姿を発見したこと、遺跡は瀧之段遺跡と名付けられていたこと、しかしネットで探し当てた報告書の作業協力者の欄にはミヨ子の名前はなく人違いだったらしいこと、再び遺跡を探したところ「上城詰城跡(うえんじょうつめんじょうあと)」という遺跡にたどり着いたことなど。

 前項では遺跡の場所や発見の経緯などについて述べたが、地元出身者の目線でもう少し書いておきたい。

 報告によればこの遺跡は、平成6(1994)年6月~平成10(1998)年3月にかけて、事前調査に続き3回にわたる発掘作業が行われている。二三四がミヨ子も参加したと勘違いした「瀧之段遺跡」の調査・発掘からは少し遅れるが、ほぼ同時期だ。ミヨ子の夫・二夫(つぎお。父)がハウスキュウリの経営に失敗した結果、借金を返済すべく土木作業に出て、ミヨ子は細々と田畑を守っていた頃でもある。

 報告から発掘の経緯を解読(?)すると、県が費用を助成する「営農村活性化住環境整備事業」とやらで山間部を開発しようと山を崩しかけたときに遺物が出てきた、これは遺跡かもしれないと町(自治体。当時)に報告したところ、まずは調べてみようと「事業」のほうはいったん中断。専門家が調査したところどうやら古代から中世の遺跡らしい、ということになり、3回に分けて発掘作業を行った、ということのようだ。

 そして、少しずつ地面を掘って遺物を探し当てる作業の手伝いとして近隣の主婦に声がかかり、誰経由かわからないがミヨ子も加わったのだろう。

 前項でも触れたとおり、発掘現場はミヨ子の家(二三四の実家)のすぐ上のほうだ。数十年前までは山上に墓地があり、大人の脚なら15~20分ぐらいあれば着いたが、この頃には元の山道は草木が茂りほとんど通れなくなっていたかもしれない。傾斜地でもあるので、発掘作業の高齢のパートさんには送迎車が出ていた可能性はある。

 報告には調査や発掘作業を行った時期(年月日)、遺跡の図、遺物の写真や図版、そして説明や歴史的考察などが詳しく記載されている。が、ていねいに地面を掘ってひとつひとつ遺物を探したであろうパートさんたちの活動については記述がない。「瀧之段遺跡」の報告書と違って発掘作業者の名前もない。彼女たちの存在は「あとがき」にほんの少し触れているだけだ。

 だから、厳密に言えばミヨ子がここでの作業に携わったのかまでは確認できていない。本人に確認しようにも、残念ながら記憶をたどるのはもう難しい状態になっている。だが「状況証拠」から推測するに、ミヨ子が発掘作業に携わったのはこの遺跡と考えて間違いないだろう。

《参考》
全国遺跡報告総覧 >上城詰城跡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?