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私が自分の人生を取り戻した道のり





■はじめに

久しぶりの更新になりました。
さくらいです。
私は5歳~17歳頃まで、精神疾患の母親と暮らしていた経験があります。
私とっては、地獄のような日々で今でもトラウマを抱えています。

今回は、そんな私が、自分の人生を取り戻していった道のりについて書いていこうと思います。

※精神疾患をもつ親の方を非難・差別する意図は全くありません。
一個人の体験としてご覧いただければ幸いです。


■最初のきっかけは精神疾患

私が人生を取り戻していったきっかけは、23歳の時、自分自身が精神疾患(うつ病・適応障害)になってしまったことでした。

どういうことかというと、精神疾患になって、ベッドから一歩も動けない状態になって初めて「もう私はダメかもしれない」という自分の心の限界に気付いたのです。

子どもの頃から無意識に、心が壊れてしまうのを防ぐために「辛い」と感じる自分の心のセンサーを切って生きてきた私にとって、初めての経験でした。



■休職期間で得たもの

当時の私は、精神的にも体力的にも、とても働ける状態ではなかったので、休職させてもらうことになりました。

主治医からは「できれば、規則正しい生活をして、とにかく休みましょう」と言われていました。
しかし、当時は「休む」という感覚がいまいちわからず……"(-""-)"

”朝起きて、3食ごはんを食べて、寝る”
”調子がいい時は散歩をしたり、カフェに行ってみる”

という生活をひたすら繰り返しました。

この生活を繰り返しているうちに、私は人生で初めて「自分のためだけの時間」を過ごしていることに気がつきました。

過去を振り返ると、私は自分のために行動したことがありませんでした。

子どもの頃は、家事をやるのも、母を慰めるのも、学校に休まずいくのも、全部「お父さんに負担をかけないようにするため」「お母さんの病気を治すため」でした。
全ての行動基準が家族のためにあったのです。

休職して、初めて誰のことも気にしなくていい時間を過ごした結果、人生の焦点が「家族」から「自分自身」に変わっていきました。




■「もしかして私って辛かった…?」

人生の焦点が「自分」に向き始めた時、「私は子ども時代に、自分の思っている以上に辛い経験をしているのではないか」と思い始めました(今更( ゚Д゚))

驚くことに、渦中にいた子ども時代はその自覚が一切なかったんです。

「自分より辛い経験をしてる人は沢山いるから、たいしたことではない」とさえ思っていました。

しかし、私の想像以上に、幼少期に子どもらしくいられなかったことの代償は大きく、その後の自分の人生に多大な影響を及ぼしていました。

対人関係がうまくいかない
無意識に人の顔色を伺っている
人が怖い
信用できない
本当の自分がわからない
頼るという概念がない
いつも戦場にいるかのように緊張している
過去のトラウマに苛まれる‥

「この生きづらさって、過去のせいなのかも」
そう思えるようになっていきました。
さらに、ある言葉との出会いでそれが確信に変わっていきます。



■”ヤングケアラー”という言葉

この言葉に出会った瞬間「これ私だ!!!」と衝撃を受けました。

名もなき存在だった私が可視化された瞬間でした。

「私を見つけた」
「1人じゃなかった」

この事実だけでも救われた気がしました。




■ピアサポート”こどもぴあ”との出会い

ヤングケアラーという言葉を調べていくうちに見つけたのが、現在、運営スタッフとして参加させて頂いている「精神疾患の親をもつ子どもの会 こどもぴあ」でした。

しかし、当時の私は

「どうせ理解してもらえないだろう」

「慰めあって何になるのか」

とピアサポートに対して、非常に攻撃的な姿勢をとっていました( ´_ゝ`)

それもこれも、幼少期に人に家庭のことを話して理解してもらえなかったり、逆に励まされたりして傷ついた経験があったからだと思います。

それでも、自分の中に「この生きづらさをどうにかししないとこれから生きられない!」という思いがあり、参加してみることにしました。



■ピアに参加して衝撃を受けた言葉

心の防護率200%で、期待せずに参加した「こどもぴあ」で私は自分の経験を少しずつ話しました。
すると、会話の中でこんな言葉をかけてもらいました。

「それは本当に辛かったですね」

ありふれた言葉ですが、私にとってはとても衝撃的な言葉でした。


それまで、大号泣しながら家庭のことを打ち明けても、返ってくる言葉は大抵

「おねえちゃんなんだから、家族を支えてあげないとね」

「大丈夫!がんばって!この経験はいつか絶対将来の役にたつよ!」

「えらいね。お母さんの代わりにがんばってね」

等、「ケアラー」である私を肯定するポジティブな言葉ばかりで、子どもである1人の人間としての「私」の気持ちに寄り添って「辛かったね」と声をかけて寄り添ってくれる大人は1人もいなかったんです。

とても単純な話ですが「辛かったね」なんて、23年生きてきて家族にすら言われたことがない私は、この言葉をかけてもらって自然と涙が出ました。
きっと、自分が1番ほしかった言葉だったんだろうと思います。

そして、この時、私は初めて自分の中で泣いている子ども時代の自分と対面することができました。



■血迷って友人たちに打ち明けまくる

ピアに参加して、なんとなく自分を見つけた私は、このような考えに至りました。

「ピアに参加して、心がちょっと軽くなった。人を頼るといいのかもしれない」

「今の私に圧倒的に足りないのは、きっと人に頼ることだ」

「人を頼ったら私の生きづらさはマシになるはず!」

よし、頼ろう!!!!!

と単純すぎる目標をたてました( ´_ゝ`)

しかし、当時は「頼る」という経験を全くしたこなかったため、頼る方法がわかりませんでした。

そこで私が「人に頼る方法」として思いついたのが「友人に過去を打ち明けまくること」でした。
当時は“頼る=自分のことを話す”という認識だったんです。

そして、唐突に友人たちに連絡をとり、激重な話を友人に聞かせまくりました(ほんとに申し訳ない‥(ーー;))

当然、困らせてしまいました。


それでも友人たちは


「そうやったんや」

「よく生きてこれたな」

「ほんまにがんばりすぎ!休まなあかんで!」


とびっくりするほど暖かい言葉をかけてくれました。
本当に感謝です。

こうして23歳にして「頼って寄り添ってもらえた」という成功経験を積み重ねていくうちに「他人は信用できない。自分でやるしかない」という気持ちから「人によっては信用できるのかもしれない」という気持ちに少しずつ変わっていきました。




■現在

26歳になった今も、トラウマや生きづらさと向き合う日々を過ごしています。
心の傷は、完全に癒えることはないでしょう。

ずっと自分と向き合い続けなればいけないんだと思います。

それでも、自分でやっと歩み出した私のためだけの人生を、一歩一歩を噛み締めながら、ぼちぼちと生きていきたいです。



■最後に 「希望とは、絶望を分かち合うこと」

最後に、私の好きな言葉があります。
それは、熊谷晋一郎先生の

「希望とは、絶望を分かち合うこと」

という言葉です。
私の回復過程はまさにこの言葉で表されます。

「1人ではなかったんだ」「似た思いをしてきた人たちがいる」と衝撃を受けた、ヤングケアラーという言葉や、ピアとの出会いは、私の人生を180°変えました。

今度は私が「1人ではない」と伝えたいです。



長くなってしまったので、このへんで( ̄▽ ̄;)
読んで頂き、ありがとうございました!

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