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「フレンパ」~友だち以上父親未満~ あとがき

いま、昭和を駆け抜けたオジサンたちは、年齢的に50歳を超えた年代になるのだろうか。幸運にも出世して部長や役員になっている人たち、その一方で窓際族というか、役職を無くして一兵卒の平社員になっている人たちがいると想像するのだが、もちろん、それ以外にも組織人として役割を担い日夜活躍している人たちもいることだろう。

バブル景気を体験した人も多く、イケイケの新入社員時代から一転して不況の時代に揉まれながらも、ニッポンのサラリーマンとして命を懸けて社運の発展に邁進したという武勇伝も少なからずあると思う。

そんな中高年サラリーマンが、若い時代に自分を突き動かしたエネルギー。その源は一体何だったのだろうか・・・。

全てとは言わないが、お国のため会社のため、もしくは世のため人のため、という高邁な精神があったのではないかと思うのは、私ひとりではないような気がする。「会社のため仕事のためなら、この場所で野たれ死んでも構わない」と思いながら残業、または徹夜した御仁も多いのではないだろうか。

その一方で、遊びもそれなりに愉しむ。プラス、マイナスともに振り切れるほどに熱く生きた時代だったのかもしれない。

いま、時代は変わって、デフレによる影響もあってなのか安全志向、スマート主義、減点恐怖症的な働き方が主流になっているように思える。それはそれで仕方ないことで、時代に合わせて仕事もプライベートも変えてゆくべきだろう。

「熱い時代」から「冷めた時代」への適応力。それは、これまで外に向けていた意識を自分に向けてみることから始まると考える。自分と言う存在が外部にどう受け止められているのかにフォーカスしていたのなら、これからは自分が何を発信できるのかにフォーカスしてみたい。

「フレンパ」の主人公である綾島吾朗は55歳で肩書きを外されて、一兵卒となってしまう。しかし、年下の上司に反発したり、おもねることもなく自分にできることにフォーカスをした。そして、それが現状からの脱出につながる一歩となった・・・、そんなストーリー。

もちろん小説ならではの、ドラマティックな奇跡ともいえる偶然も要因としてはある。ただ、そんな偶然を引き寄せるのも、まずは自分の意識からはじまるような気がする。

この小説が、不遇にも窓際で肩身を狭くしている中高年サラリーマンにとって、一服の清涼剤になれば幸いである。




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