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「東京恋物語」第八話:見えない傷跡

エスプリグループの旗艦店であるアポロンで、初出勤というデビュー当日を無事にを終えた祐太郎は、担当する数人の女性からアフターへと誘いを受けていた。しかし、祐太郎は、それらの誘いを程よく断って、橘新之助のグループが高級焼肉店でアフターをするという誘いを選んだのだった。それはもちろん、情報収集のためである。そして、小一時間ほど食事をして大久保の自宅へ戻った時、時計の針は既に午前二時をまわっていた。
ほとんどシラフの状態だった祐太郎は、奈々子がすでに眠っていることを考えて自宅のドアをゆっくり開けた。
「ただいま」
「あっ、お帰り。ごめんなさい、気づかなくて」
奈々子はローテーブルでパソコンを開きながら、何やら考え事をしている。「奈々ちゃん、何かあったの?急に、アポロンに来れなくなったって」アポロンに来る予定だった奈々子が、なぜ急に来れなくなったのか、祐太郎はその理由を知りたかった。
「ええ」
奈々子はそう言うと、パソコンの画面に映った、新聞紙面広告のゲラ刷り版を祐太郎に見せた。通常、政治家や芸能人のネガティブ記事が週刊誌広告として新聞に掲載される場合、芸能事務所などが懇意にしている新聞社であれば、事前に掲載内容を連絡してくる慣習がある。
「これって・・・」
そこには、歌舞伎町のホストクラブ、ゼウスでマスクを外し、グラスを傾ける奈々子らしき姿が、目隠し線を入れて映っていた。タイトルは、「新藤奈々子、休暇中は彼氏に内緒でホスト通いか?」となっている。
「それと、これ見て。今日、青山の事務所ポストに私宛で入ってたのよ」
奈々子はさらに、二枚の紙を差し出した。
一枚目には、「これ以上、いろいろ詮索すると、後悔するよ」の一文のみが、大きなゴシック体で印字されている。そして次の二枚目には、カラーコピーで、奈々子の後輩女優の栗原翔子らしき女性が、裸でベッドのシーツにくるまって微笑んでいる画像があった。その顔には目隠し線が入っているものの、明らかに翔子であると認識できるレベルの鮮明さである。これはつまり、次回はこの写真を週刊誌に掲載するということなのだろう。
「それで、奈々ちゃんの事務所は何て?」
「まあ、疑惑レベルの話しで、私らしき画像も不鮮明だから、まずはこのまま知らん顔するらしいわ。でも、マスコミの報道が過熱したら、この報道はガセネタであると否定するコメントを出すって」
「なるほど。でも、こっちの栗原さんについてだけど、この画像のことは、彼女に何か聞いたの?」
「もちろん聞いていないし、内緒にしてるわ。ようやく精神的に立ち直って、復帰できる状態にまで回復したんだから」
「だよね。じゃ・・・、そろそろ、このへんで僕たち、終わりにしない?もともと、情報収集だけの目的で計画したことだし・・・」
祐太郎はそう言うと、最後まで不可解だったパパ活支援システムと、エンジェルアプリを使ったネットワークビジネスの全容が、ようやく判明したことを奈々子に告げた。
「私も、ジャーナリストの瀬戸さんから、電話とメールで面白い情報をもらったのよ」
そして奈々子は、エムケーフォースが、エンジェルアプリのネットワークビジネスで得た利益を、主に霞が関の官僚絡みの接待に使っており、しかもそれは、会社が開示している財務諸表に反映されていないことが、宮野が行きつけにしているゴルフ場や、高級レストラン、高級ホテル、ハイヤー会社への取材で判明したことを話した。
「なるほど、そういう金の流れがあったのか・・・。あっ、それとね、エンジェルアプリの利益だけど、単純計算しただけでも、かなりな金額になるみたいだね」
祐太郎はそう言うと、「あくまでも単純な計算として、月々の会費千九百八十円が会員の一万人から入ってくれば、ネットワークビジネスのコミッション分となる一人千円の一万人分を差し引いても、毎月合計で九百八十万円が利益として入ってくることになり、一年だと一億二千万円弱の収入になる」と話した。
「じゃあ、宮野はそんな大金を、裏金として無申告で政治利用してるのね」
「まあ、運営スタッフの人件費や撮影機材、事務所経費、AV俳優たちのギャラとかも差し引けば、自由にできるのはその半分、年間で六千万円ぐらいかな」
さらに祐太郎は、「それが宮野にとっては、会社の財務を通さず自由に使える、まるで子供のオモチャみたいになってるね」と話した。
「これ以上、宮野の裏ビジネスに深入りするのって、なんだか危険な感じもするんだけど・・・」
さらに祐太郎は、真面目な表情でそう言うと、頃合いを見て早々にホストを辞める考えがあることを奈々子へ伝えた。
「これまで、いろいろありがとうね。助かったわ」
そして奈々子は、大きなあくびをしながら、先にベッドへ潜り込んだのだった。
そんな奈々子の額に、祐太郎は軽くキスをした。
「なんだか、焼肉臭くない?」
「そうかな~」
そして祐太郎は、服の臭いを嗅ぎながらバススームへと入っていった。

その翌日、乃木坂周辺の通りには、傘をさしたビジネスパーソンたちが行き交い、梅雨らしい朝の風景が広がっている。
エムケーフォースの会議室では、早朝から宮野を囲んで、タクシー配車アプリ向け新商品の開発に関する経過報告会が開かれていた。
「では、予定より一ケ月も早く、来月にはプロテタイプが完成すると?」
宮野の言葉に、開発リーダーの男性が続けた。
「はい。調べたところ、メトロキャブはすでにイーライドという配車アプリを導入しております。そのイーライドに、当社が開発したアルゴリズムを乗せてバージョンアップすれば、開発は大幅に短縮できます」
そして開発リーダーは、イーライドを開発した会社との協業、そして利益の折半について、すでに調整を進めていることを話した。その理由としては、ネット決済を含め、多様な支払いモードを搭載したエムケーフォース独自のアプリを、インターフェイスで結ぶとなれば、メモリの容量が減少し、情報処理のスピードが落ちてしまうことで、メトロキャブは受け入れを拒否する可能性が高いと判断したからである。
「なるほど、よくわかった。では、その方向で進めてくれ。急なリクエストと突貫スケジュールの中、君たちの迅速な判断と対応、ご苦労だった。では、この後も継続して開発を頼むよ。どんなプロトタイプが出来上がるか、楽しみにしてるから」
宮野はそう言うと、早々に会議室を後にした。そして、坂本の運転する白いベンツに乗り込んで、自社ビルである赤坂オフィスへと向かった。
ドライバーの坂本が、その敷地内にある駐車場に車を止めると、宮野は急いでビルの中へと入っていった。二階にあるオフィスのドアを開けると、そこには、エンジェルアプリのオペレーション部隊やオリジナルAVコンテンツの撮影部隊、男女十人あまりが座っていた。
「では、今から臨時朝礼を始めます」
司会者の男性がそう言うと、宮野は立ったままで話しはじめた。
「お待たせ。みんな忙しいところ、朝から集まってくれて、申し訳ない」
そして宮野は、正面に用意された椅子へ腰を下ろした。
「みんな、事前に聞いていると思うが、来月から、この赤坂オフィスは別会社に移行する。これからさらにアプリ会員が増えてゆけば、体制もパワーアップする必要がある。より柔軟な対応ができるように、独自の経営体制を敷いた上で、輝く将来を創造してもらいたい」
そして宮野は、子会社化した会社の社長に、運転手であった坂本を就任させることを説明した。
「坂本氏は、長年私の専属ドライバーとして勤務してもらったが、かつては会社を経営していた見識がある方だ。そして、さまざまなアプリ開発に斬新なアイデアを提案してくれた実績もある」
さらに宮野は、自分の片腕のように信頼できる人物であることを強調し、今後は、坂本社長を信頼して、新会社を盛り上げて欲しいと話した。
そして、横に座っていた坂本が、立ち上がって挨拶をすると、会場からは拍手が鳴り響いた。
「今後、実績に応じて、みんなの待遇も改善してゆくつもりです。だから、これまで以上に一層、クオリティの高いコンテンツを作っていきましょう」
坂本はそう言って、挨拶を締めくくると、会場は再び拍手に包まれたのだった。
その後、宮野と坂本は再び白いベンツへ乗り込んで、赤坂オフィスを後にした。
「宮野社長、私がタクシードライバーになる前は、ホストを一年やって、その前は確かに会社の経営者でした。とはいっても、小規模のコンサル会社を三年ほど続けただけの失敗組ですよ。本当に私でいいんですか・・・」
運転席から、坂本がそう言った。
「坂本さん、あなたしかいないんですよ。ご存じの通り、赤坂オフィスは表に出せない組織です。だからこそ、失敗経験もあって、表と裏の両方を熟知している坂本さんが適任なんです・・・、あなたしかいない」
宮野は、悲痛な口調で語るように言った。
「七月半ばから、秋の株式上場に向けたデユーデリが始まります。赤坂オフィスをコストセンターとして子会社化することで、財務諸表にメリハリが出る。それはつまり、会計監査に耐えうる財務諸表ということになります。坂本さんには、急な会社設立準備で大変な役回りですが、よろしくお願いします」
宮野はそう言うと、目を細めながら、車窓を通り過ぎてゆく雨の赤坂通りを見つめた。

そして翌日、書店に並んだ芸能週刊誌の表紙には、奈々子のホスト通いを疑う記事が大きく取り上げられていた。
(ユウ、今日は朝礼の前に話したいことがあるから、夕方五時には出勤してくれ)
祐太郎は自宅のベッドで横になったまま、通信アプリで、美月総代表からのメッセージを読んでいた。
(了解しました)
急いでそう返信した祐太郎は、ベッドから起き上がって、テレビのスイッチを入れた。
新聞紙面や電車の中吊りに、奈々子のホスト通い疑惑の広告記事が出たことで、テレビも一部のバラエティ番組では、この話題を取り上げていたが、現時点ではどうなっているのが、祐太郎は真剣な表情で、チャンネルを変えながら、報道の有無を確認しようとしていた。
時刻は既に、午後二時をまわっている。
奈々子は、いつものように、朝から青山の事務所でNPO法人の立ち上げの事務手続きをした後、恵比寿の自動車学校に通う毎日であった。
ちょうど、午後のワイドショー番組が、奈々子のホスト通い疑惑を報じている。
「この写真では、本人とは断定できませんね。確かに、似てはいますけどね・・・」
コメンテーターとして出演している芸能記者が、そうコメントしていた。
その後、特に批判的なコメントは無く、ゆっくり休養して、新しい恋人との関係を良好に保って欲しいという好意的な論調であった。そして祐太郎は、そのまま何気なくテレビから流れる音声を聞いていた。
「続いては~、独占スクープ記事のコーナー。今回は、『霞が関に激震か?政治家秘書や官僚への高額接待と、IT関連会社との黒い関係』についてです。スタジオには、フリージャーナリストの瀬戸翔太さんに来ていただいております」
祐太郎は、一瞬耳を疑った。
テレビの画面には、瀬戸がコメンテーター席に座っている姿が映っている。
「まさか・・・」
祐太郎は、一昨日の深夜に、奈々子が話してくれた、瀬戸からの情報を思い出していた。
スタジオで話す瀬戸からは、宮野の名前やエムケーフォースという社名は出てこなかったものの、乃木坂に本社のあるIT関連のM社が、ゴルフや飲食の接待、さらには特別なサービスを提供する女性を紹介するなどの疑惑があると語った。しかも、その接待に充てられた資金は会社の利益から捻出されているものの、適正な会計処理がされた形跡がないことも伝えていた。
「この高額接待については、脱税の疑惑もありますから、今後の株式上場にも影響するのではないかと思いますね」
瀬戸がテレビで語るコメントを聞きながら、祐太郎は一昨日の深夜、アフターで訪れた高級焼肉店内での会話を思い出していた。
「パパ活の依頼元って、エンジェルアプリを作った会社なんだけど、その会社って、もうすぐ上場するらしいわよ。株で儲けるチャンスかも」
焼肉を食べながら、そう言った真由子は、この情報が、以前にパパ活でゴルフへ行った際に入手した内容であること、そして上場は東西証券が担当していることも話した。
「東西証券・・・」
祐太郎は何気なく、この証券会社の名前をつぶやくと、アポロンへの出勤準備のため、バスルームへと入っていった。

奈々子のホスト通い疑惑、そして宮野の脱税疑惑に関する各テレビ局の報道番組を、ひと通り見終わった後、祐太郎は美月総代表と約束した午後五時、アポロンのメインフロア奥にあるボックス席にいた。
ボックスのソファー席には、美月総代表と三上代表が並んで座っている。
「早く来てもらって、すまなかったな。実は、この記事なんだが・・・」
三上がそう言うと、脇に置いていた芸能週刊誌をテーブルの上に乗せた。それは、奈々子のホスト通い疑惑記事を載せた週刊誌である。
「この写真からみて、場所はウチの店内だと思うんだよな。それと、後ろ姿になっているホストって・・・、ユウ、お前じゃないのか?」
三上の言葉に、祐太郎は軽く頷いた。
「その通りです。私が接客していた卓の写真ですね」
「やはりそうだったか・・・。それで、このジャージ姿の女性は、まさか、あの新藤奈々子なのか?」
「はい。メイクと髪型で従来のイメージをかなり変えてはいますが・・・。それと、この写真は、以前に三上代表と橘さんが合番された夜の写真じゃないかと思います」
三上の問いに対して、「奈々子ではない」と否定することも可能であったが、今このタイミングこそが、ホストから身を引くきっかけになると瞬時に感じ取った祐太郎は、三上による推理が真実であることを伝えたのだった。「あの日か・・・」
宙を見上げるように、ソファーへもたれかかった三上は、その後の言葉を言い出せないでいた。
「ユウ、個人的な事は聞くべきではないが、今回に限っては教えてくれないか。ユウと新藤さんは、どういう関係なんだ?」
先ほどまで沈黙を通していた総代表の美月が、祐太郎に聞いた。
「実は、彼女がメディアに交際宣言した相手・・・、それが私です」
「何だって?確か、彼女の相手はタクシードライバーって、そんな報道だったが・・・」
三上が、慌てた様子でソファーから身を乗り出すように聞いてきた。
「すみません、履歴書には書いていませんでしたが、四月末までタクシードライバーをしていました」
「では、どうしてホストになろうと?」
美月が、いつもの落ち着いた声で聞いてきた。
「それは・・・、エムケーフォースの表に出せない裏ビジネスを調べるためです」
「それは、今日のテレビで、スクープ報道された脱税疑惑の件と関連するのか?」
美月も、先ほどのテレビ報道を見ていたようである。
「いいえ、それとは別の目的がありました」
祐太郎はそう言って、奈々子の後輩女優が、宮野とホストの橘によって、パパ活を強要される状況までになったこと、そして結果的に精神を病んで入院したことを話した。
「橘が、そんなことに絡んでいたのか」
三上が、意外な口調で言った。
「はい。おそらくゼウスに在籍していた頃の話しかと。あと、橘さんは系列のバーを拠点に宮野氏と連絡し合って、女優やモデルの卵、さらには一般女性までも、パパ活をさせようと口説いていたようですね」
そして祐太郎は、一般女性のうちの一人は、自殺未遂を起こしたこともあり、こういった不幸な女性が二度と出ないよう、奈々子は半年間の休暇を使って、NPO法人アクトレス・シェルターを立ち上げようとしていることを話した。
「なるほど。相手の手口を知らなければ、対策も打てないからな」
美月は、口元をほころばせながら言った。
「それで、情報収集はもう済んだのか?」
三上が祐太郎に聞いた。
「はい、終わりました」
「じゃぁ、ホストは・・・」
そう言った三上は、深く頷いた祐太郎を見ると、祐太郎がホストを辞めるつもりであることを悟ったらしく、少し残念そうな表情を見せた。
「ホストを辞める前に、これだけは話しておきたい。聞いてくれるか?」
美月が真剣な表情で、祐太郎を見つめた。
「宮野はなぁ・・・、かつてこのエスプリグループで、ホストをしていたんだよ」
そして美月は、宮野が母子家庭で育ち、小学校から中学校を通じて、いじめを受けていたこと、そして成績が優秀であったものの、金銭的な理由で大学へは進学することなく、専門学校へ入ったことで、学歴に関するコンプレックスを強く抱いていることを話した。
「プライドの高い男だから、自分より学歴の高い相手に対しては、頭を下げたくないんだよ、アイツは・・・。だから、女性を使ったハニートラップで、つねに自分が優位になるポジションを作ってビジネスをするようになったんだと思うよ」
「そんな過去があったんですか・・・」
祐太郎は、しみじみとした表情で言った。
「だからだろう、自分と同じ暗い過去を背負ったホストたちには、面倒見が良くてね。ただ、一番仲が良かった年長のホストが若くして死んでしまった後だったか・・・、急にホストを辞めてね。小さなゲーム会社に就職した。それ以降はしばらく音沙汰がなかったんだが、アイツが独自で作った女性専用のアルバイト紹介アプリが大ヒットした後、また昔のホスト仲間と会うようになったようだね」
そして美月は、宮野がそれ以降、ホストへ女性を紹介するために、系列のバーを使い始めたのではないかと話した。
「よく分かりました。でも、宮野氏が、本意でない女性たちを夜の世界へ引きずり込むのは・・・、やはり、止めるべきではないかと思います」
「その通りだ。それについては、私も何か打つ手を考える。ユウも、何かアイデアがあったら、ホストを辞めたあとでも構わない、遠慮なく私に連絡して欲しい」
美月の言葉に、祐太郎は「了解です。よろしくお願いします」と頭を下げた。
「では、ユウのラストは、一週間後で予定するが、いいか?」
「はい。ありがとうございます」
祐太郎の返事で、美月と三上は、同時にボックス席のソファーから立ち上がると、事務室へと向かった。
「ふうっ」
祐太郎は、深く安堵のため息をつくと、その後ろでは、午後六時の朝礼を前にして、ホストたちが続々と接客ホールに集まり始めていた。

いつも通りのホスト勤務を終えた深夜一時半。
さまざまな灯りで照らされた歌舞伎町の街には、この時間になっても、多くの若者たちが行き交っている。
祐太郎は、区役所通りを真っ直ぐに、ひとり大久保通りへの帰り道を歩いていた。その途中、鬼王神社の交差点で信号待ちをしていると、自分の真正面を広告宣伝車のアドトラックが通り過ぎてゆくのが見えた。
「これって・・・」
祐太郎の前を通過するそのアドトラックは、エスプリグループの宣伝をしている。そして、その大きな車体の側面には、期待のニューフェイスというキャッチコピーで自分の顔が大きくプリントされていたのだった。
「ここまでしてくれたのに・・・、総代表、ごめんなさい」
祐太郎は、なぜか自分がとても申し訳ないことをしてしまったという思いに駆られ、行き過ぎるトラックに向けて深々と頭を下げたのだった。

「ただいま」
祐太郎が、大久保にある部屋のドアを開けると、奈々子はパソコンに向かったままで、つぶやくように「お帰り」と言った。そして、祐太郎のほうに自分が見ていたパソコン画面を向けた。
そこには、IT業界の風雲児、宮野浩介氏に脱税疑惑か?というタイトルで、ネット記事が映っている。
「以前、フリージャーナリストの瀬戸さんから、エムケーフォースのスクープ情報をテレビで報道する前に、直接その詳細を聞いたの。その時、『実名は出さないで』って、お願いしたのよ。だから、彼はその通りに実名を出さなかった・・・。でも、やっぱりどこからか漏れてしまうものなのね」
「なるほど。昼間のテレビで瀬戸さんがスクープ情報について説明した時、彼が実名を出さなかった理由がいま分かったよ。奈々ちゃん、やっぱりやさしいね」
「だって・・・、変に逆恨みされたら困るじゃん。それと、以前に祐くんも言ってたじゃない、『相手が攻撃してこない限り、法的な証拠になる事実を集めるだけでいい』ってね」
そんな奈々子に、祐太郎は微笑みながら軽く額にキスをした。
「いまの報道だと、まだ疑惑の段階だし、宮野氏が財務担当の不手際ということで、修正申告すれば、おそらく彼の名誉は守れると思うよ」
祐太郎はさらに、政治家の秘書や官僚への接待についても、弁護士に依頼して利害関係が無いことを主張すれば、時間はかかるが、いずれマスコミも騒がなくなると話した。
「やけに宮野の肩を持つのね?」
そんな奈々子に祐太郎は、美月から聞いた宮野の過去を話し始めた。
「母子家庭だったの・・・、あの人。私の場合はおばあちゃんだったけど、なんだか似てるわね。それと、学歴コンプレックスって、男なら誰でもあるのかもしれないけど、彼の場合はそれが人一倍強烈だったのかな」
さらに奈々子は、精神を病んだ後輩女優の栗原翔子は、都内の有名私大卒だったと話した。
「彼女、本気で宮野のこと好きだったみたいね。でも、宮野はただ、美人の高学歴女子を弄んだだけだった・・・、あげ句の果てには、ホストへ紹介して」
「それも、学歴コンプレックスが原因だと?」
「たぶんね。子供から青年期にかけてのトラウマって、なかなか手放せないものだと思うの」
奈々子は、自分が中学生の頃、祖母が体調を崩したために、仕事の収入が減ってしまい、さまざまな出費もあって、修学旅行の費用が捻出できず、行くことができかった。それが原因で、今もなお集団で旅行に行くことに対し、恐怖感や嫌悪感があると話した。
「じゃあ、どうすれば、そのトラウマっていう精神の病みたいなものを消せるのかなぁ~」
祐太郎は、これまで両親の下で何不自由なく育てられたことから、トラウマという体験もなく、その具体的な精神状態を想像することができすにいた。「そんな消せるってものじゃないわ。でもね、良いも悪いも・・・、『これが私の人生だ!』って思うことかも。仕事柄、これまで映画やドラマでいろんな役をさせてもらったわ。それって、演じるんじゃなくて、すべてが魂レベルでの学びだったように思うの」
「なんだか、よくわからないけど、わかるような気もする・・・」
祐太郎の怪訝な顔に、奈々子は笑いながら、「坊っちゃんには難しいかな?」、とからかうように言った。
「例えば・・・、坊ちゃんも、それを経験する人生だし、たたき上げの人も、ひとつの人生。良いも悪いも関係なくて、その全部が貴重な経験だってこと?」
「その通りよ。みんなが求めるような、普通に勉強して、普通に仕事して、普通に結婚して・・・そんな人生って、つまんないでしょ。祐くんだって、私と関わったばかりに、歌舞伎町のホストになったりしたしね。」
そんな奈々子の話しを聞きながら、祐太郎は美月総代表の言葉を思い出していた。それは、童心、正義、愛情の三カ条である。『人生に起こるいろんな経験・・・。人は子供の心のように先入観なしで、それらと向き合い、たとえそれが試練でさえも、愛情をもって受け入れながら生きるべきなのかもしれない・・・』、祐太郎は心の中で、そうつぶやいていた。

第八話 おわり


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