龍神さまの言うとおり。(第6話)
二人が校舎の外に出ると、グリークラブの歌声は、よりクリアに聞こえてきた。そして伸びのある、さまざまな音域の声が、あちらこちらから響きわたっていたのだった。
「男子校だけど、合唱の声を聞くと放課後の雰囲気とか昔のことを思い出すんじゃない?」
洋介が、校庭を並んで歩く恭子に言った。
「そうね。あの頃の三河くんは、放課後いつも生徒会やら、所属してた生物部の水槽作りやらで、遅くまで忙しくしてたわね」
「まあ、成り行きでね」
「一緒に帰りたいと言っても、ほとんど無理だったし」
「そんなことないよ。最低でも週に二、三回は一緒に帰ったじゃん」
「私は、毎日一緒に帰りたかったの!」
恭子は、ふてくされるように、くちびるをとがらせた。
「そのアヒル口、昔と全然変わってないね」
「そう?もしかしたら・・・、私も、ぜ~んぜん進化してないのかな、あの頃から、ずっと」
ため息を吐き出すように言った恭子を見ながら、洋介はふと思った。
「あのさ、今のご主人と、そんな風に子供っぽく会話したことある?」
「ん~、そうね~」
恭子はそう言った後、不意を突かれたような顔をして立ち止まった。
「あれっ?この曲・・・」
恭子は、そう言って目を閉じた。
グリークラブが、パート毎の発声練習を終えて合唱を始めたらしく、重厚なハーモニーが校舎を反響板にして校庭全体に響いている。
「どうかしたの?」
歌声が響く中、周辺を見まわしながら洋介が聞いた。
「私が大好きな曲、ユー・レイズ・ミー・アップよ」
そう言った恭子は、ショルダーバッグを地面に置いた後、目を閉じて深く息を吸った。そして、グリークラブの合唱に溶け込むようにソプラノパートを歌い始めたのである。
安定感と伸びのあるソプラノに気づいたグリークラブのメンバーたちが、ハーモニーを響かせながら校舎や渡り廊下の窓際に立って、校庭で歌う恭子を見つめている。
やがて、荘厳な終盤のメロディーが、大音量で周囲を包みながら遠くまで響き渡っていった。
いつの間にか近隣の住民たちが、この歌声に引き寄せられるように集まり始め、校門から校庭の中を覗き込んでいる。そして、最後のフレーズを歌い終わった時には大きな拍手が湧き起こったのだった。
満足げに微笑んだ恭子は、両手を大きく振りながら窓際に立つグリークラブの学生たちへ、セッションに対する感謝を伝えた。さらに、校門前に集まった近隣の住民たちには、何度も深くお辞儀をして、一人一人に感謝のアイコンタクトをしたのだった。
住民の拍手が鳴り終わったところで、恭子は洋介と目を合わせると、地面に置いていたショルダーバッグを肩にかけて、ゆっくりと歩き始めた。そして洋介は、恭子とともに軽く会釈をしながら、近隣の住民たちが集まった校門から正面の路地を地下鉄の駅へと向かった。
何気なく洋介が背後を振り返ると、先ほどの住民たちは、名残を惜しむように二人の後ろ姿を見送り続けている。それに気づいた恭子は、改めて軽くお辞儀をすると、洋介もつられるように軽く頭を下げた。ちょうどその時である。辺りの景色が急に暗くなりはじめ、遠雷も響いたことから、二人は揃って空を見上げた。
「あっ、あれって・・・」
恭子が、何かを見つけたように言った。
「何か見えるの?」
「うん、二十六年ぶりよ」
数秒間、二人はただ黙って空を見上げた。
「まさか、龍神さま・・・」
「そう」
「オレには見えないけど、何か意味があるんだろうね」
「たぶん、今日こうして、私を三河くんに逢わせるために出てきたのかも。さっき私が歌ったユー・レイズ・ミー・アップという曲には、『あなたが支えてくれるから私は強くなれる』って意味があるのよ」
恭子は、空を見上げたまま、そう話した。
「あなたって?」
「私にとっての救世主、かな?」
恭子は立ち止まり、はにかむように洋介を見つめた。
「そっ、それにしても・・・、二十六年経ったいま、どうしてまた龍神さまが現れたのかな?」
そして、照れた顔を悟られないように洋介は、さらに別の話しを始めた。
「あのさ、さっき言いかけた話しだけど・・・」
「夫の前でも、子供っぽく振舞っていたかってこと?」
「そう。子供っぽい自分って、誰もが無意識に隠しているんじゃないかな」
「どういうこと?」
そう言った恭子の視線は、歩きながらも、ずっと洋介に向けられている。
「立派な自分という仮面を付けて、演技をしているってことかも」
「いい妻を演じていたってこと?」
「僕たちって、いわゆる就職氷河期世代でしょ?いい大学やいい会社に入るため、そして女性なら、いい奥さんになるために、自分を無理やり変えてきたのかもしれないな」
「確かにね。でもね、そういう三河くんはどうなの?いい夫を演じて、奥さんとラブラブなの?」
「オレ?まっ、まぁ、会社で知り合った女性と成り行きで・・・」
「ふ~ん」
そう言った恭子は、そんな洋介を冷たくあしらうように歩調を早めた。
洋介は、そんな恭子の後ろ姿を見ながら、妻である恵子との馴れ初めについて思い返していた。
「確かにオレも・・・、結婚を決めた時は、それなりの歳だったし、周りを意識するあまり、仮面を被って安易な結婚をしたのかもしれない」
洋介は心の中で、そんな思いに駆られていると、急な通り雨が一気に路面を濡らし始めたのだった。
「やばい、早く地下鉄の入り口に行こう」
そして洋介は、咄嗟に恭子の背中に軽く手を回し、二人は足早にスコールの中を駆けていった。
第7話へ続く。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?