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『アジア沈殿旅日記』。旅行記は何を書くものか。

 昨年(2018年)の11月に、ちくま文庫から『アジア沈殿旅日記』という本を出した。これは筑摩書房から2014年に出版した『旅はときどき奇妙な匂いがする』という単行本を文庫化した際に改題したもの。もともと『アジア沈殿旅日記』はその副題としてつけていたタイトルだ。

 文庫のあとがきでも書いたように、自分としてはこれまでの作品とはかなり違った書き方をした(本人は思い切った路線変更をしたつもりでも読者にはさほど違和感がないことはよくあるので、果たして読者からみても違った作風になっているかどうかはわからない)。

 何が違っているかというと、旅のエピソードではなく、旅の肌触りそのものを描こうとしたのである。これまでにもところどころそのような表現を模索した作品はあったけれど、1冊まるごとは初めてのことだった。

 そういうふうに書きたいと思った背景には、誰もがネットに旅行記を書いている今の時代に、プロの旅行作家として何を書いていくべきなのか迷ったことがある。
 本来は、何らかのテーマを追い求めてノンフィクション作品として書くのが正攻法なのだと思う。だがそのためには人の踏み入れない場所や人の心に踏みこんで書く必要がある。ただそうなると、それはもう旅というより取材になってしまう。つまり旅行記ではなく、ノンフィクション作品になってしまう。
 私はもっと純粋に旅そのものの魅力が書きたかった。
 では、だからといって旅先で起こった出来事を書くだけでは、実際に面白い出会いがあった人には勝てない。面白い出来事はプロの作家であろうとなかろうと関係なく起こるし、ネタがいいとそれだけで面白くなる。ネットにはそんな面白い話がごまんと転がっている。
 また旅先の情報などは、それこそネットで調べればわかるし、ガイドブックを書きたいわけではないから、書くのを周到に避けてきた。

 ではプロの旅行作家として私はいったい何を書けばいいのか。
 答えはすぐに出るものではないが、それならばずっと前から書いてみたいと思っていたことを書くことにした。
 それは、旅の実感そのものである。
 有名な絶景や観光スポットを見に行くのも嫌いではないし、旅先で起こった出来事はもちろん印象深いのだけれど、それ以前に旅行中その場所にいること自体が味わい深いという、そのことを書きたい。旅に出たときのあのワクワクして武者震いがするような高揚感、そしてまた旅を続けるなかで起きる倦怠感。そういう実感を真正面から書いてみたかった。

 そういうことが書かれた旅行記は案外少ない。多くはストーリーにしたがって書かれ、そのなかに紛れて旅の実感が描かれることはあるものの、たとえば目の前にあるどうということのない風景について、その場所に関する知識や情報を書かずに、その風景と対峙した実感だけ書くというのは結構な修練が必要な気がする。それをやってみたい。

 そしてもし旅の醍醐味がなんでもない光景のなかに紛れ込んでいるのなら、絶景スポットなどではなく、ありふれた場所に行って表現したほうが言いたいことがはっきりするだろうとも考えた。だから、あえて観光的にあまり特徴のない場所へ行ってみることにした。

 当初わたしは、この企画を「キタイウス旅行」と名付けていた。

 キタイウスとは、つまり期待薄であり、観光的に期待できない場所という意味である。キタイウスとカタカナで書くことで、まるでキタイウスという国か町があるかのように錯覚し、エキゾチシズムを感じないだろうかと、そんなことも意図した。
 もちろん本音ではおおいに期待している。けれど観光地としてはさほど期待されていない場所へ行くので、キタイウス旅行。

 このタイトルは最終的には却下されたけれど、そのコンセプトはずっと胸に秘めながらこの本を書いた。極論すれば、旅先は海外でなくてもよかった(実際に本書には熊本の旅行記も含まれている)。家の近所の散歩でも、旅の情感さえ得られればこの企画は成立するはずだから。

 そんなわけで、この本は自分のなかでも異色の作品になっているはず(とくに変わらないという人もあるかもしれないけれど)。これまでに書いたもの以上に、旅の感じ、を表現できたのではないかと自負している。
 もちろんこの先もこの書き方で書いていこうとは考えていない。これはひとつの試みであって、これが唯一の正解でも間違いでもないと考えている。

 ちなみに足の痛みについては、当初企画していたときは想定していなかった。気がつけばそうなっていたから、ありのままに書いたのだけど、このときは痛みを抱えて生きる不安をどう和らげるか悩んでいたので、そういうことも書いている。おかげで当初の予定とは違う内容が割り込んできた形になった。
 ただその結果、別々だと思っていた風景と痛みの話が、最後はひとつに収斂していったから不思議だ。なにごとも書いてみるものなのであった。



 

 

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