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「もう赤ちゃん作れそうな体だね」から学ぶ言葉の美学
未だにネット上でネタにされる「もう赤ちゃん作れそうな体だね」というフレーズをご存知だろうか。
元ネタはyoutube上にアップされた本田望結のトレーニング動画についたコメントである。
その短いフレーズの中に込められた底の見えない気持ち悪さにネット民は驚愕し、魅了され、一時は流行となるほどであった。
考えれば考える程気持ち悪いのでこのフレーズを分解して解説してみたいと思う。
“もう”
《副》
事柄が今や確定的だと思う意を表す。
「―安心だ」
(Googleから抜粋)
“もう”という言葉これは上記にも示したように確定できなかったものが確定した時に使う。
日常会話で使う場合、「今か、今か」と待ち望んでいた後に「もう◯◯だね。」と使うことが多いだろう。
この言葉の製作者(以降コメ主)は遠い関係であるはずの本田望結との子作りを今か今かと待ち望んでいたことが伺える。
獲物を狩るために待ち続けついに収穫を迎える…。そんな一種のプロフェッショナル魂を感じるが、事実やってることは成人男性(想像の範囲)の未成年女子に対するセクハラである。
“もう”というこの2文字の副詞。それだけで背景と気味の悪さを演出できるコメ主には脱帽である。
“赤ちゃん作れそうな体”
1番のメインである。言わずもがな気持ちが悪いができるだけ解説してみたい。
具体的に赤ちゃん作れそうな体とは初潮を迎えた年齢であるといえる。初潮の平均年齢は10歳〜15歳からと言われている。
当時の本田望結はこの年齢に合致しているので事実として間違っていない。
だがここは日本である。未成年に手を出すと重い懲罰を受けるこの国でのこのコメントは非常に前衛的かつ、大衆から冷ややかな目線を浴びてしまう。
一歩踏み違えば犯罪である(違えなくても犯罪かもしれない)コメントは理性と本能、そして法律と調和し、一種の芸術性を生み出していると言えるだろう。
また、子供とは表現せず赤ちゃんというワードを選択したのも称賛できる。
コメ主は本田望結氏とは言わずもがな第三者であるが、子供を赤ちゃんに言い換えるだけで事務的、もしくは生物学的な観点を置き去りにし、親密な関係を構築した。第二者に勝手に昇格しているのである。
もちろん本田望結氏からすれば知らない他人。しかも体を狙う性犯罪者である。しかしこの犯罪者は一瞬で距離を詰めた。
抵抗する間も無く耳元でその業人は囁く。「赤ちゃんをつくろう」と。
そんな光景まで想像できるのである。
そしてこの“作れそう”ここにも注目していただきたい。
子供ができるかわからない。この不確定要素。そして試してみたいという願望。下心と好奇心が混ざり合い唯一の気色悪さの色がここに誕生したのである。
“だね”
語尾まで完璧である。このユニセックスな言い回し、日常では目上の人が下の子に対する優しい語尾である。
この優しさ。成人男性が未成年に使用すると下心が含まれて非常に周囲を不快にすることができる。
この、だね 解釈によっては疑問の要素も含まれていると言える。
「もう赤ちゃん作れそうな体だね?」
ここから予想される展開は誰もが暗黙の了解で解ってしまう。それ程までにこの短文、一言に込められた背景、だね。という語尾は強い力を持っている。
終わりに
「もう赤ちゃん作れそうな体だね」
たった一言にどれだけ奥深い世界が広がっているのだろう?
どれだけ理性と本能の狭間を私たちに見せつければ気が済むのだろう?
これを文学と言わずして何を文学というのか私は知らない。
芸術の域にも達していると私は考える。『赤ちゃん作れそうだね交響曲』にどれほどの人が魅了されたかは私には想像もつかない。
これから新たな尊い命を授かるかもしれない思春期の女の子達、日本語の美しさを最大限に発揮して芸術を後世に残したコメ主。
その全てに称賛と敬意を表し、私は心で呟く。
「もう赤ちゃん作れそうな体だね」
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