見出し画像

月のおまじない。(6)

< 6 >
今、のぞみとばあちゃんはリビングで向かい合って、お茶を飲んでいるところだ。窓からオレンジ色の西日が射しこんで、ちょっとまぶしい。
「いつか、こんな日がくるんじゃないかと思ってたよ」
ばあちゃんは、ほうじ茶をすすりながら、そういった。
「ゆうじさんは、ずっとのぞみに会いたがってたんだよ。でも貴理子がとめてたんだ」

父さんは、いっしょに暮らさなくなってからも、しばらくはばあちゃんと、連絡をとりつづけていたらしい。
「貴理子と結婚して、新しい事業をおこしてがんばろうとしてたんだけど、うまくいかなくてね。借金までできてしまって。あちらのご両親が肩代わりしてくれたから、なんとか無事にすんだけど、それからふたりの仲がぎくしゃくしてきてね」

ばあちゃんの口から語られる話は、なにもかものぞみが初めて耳にすることだった。どんな反応を示せばいいのか分からなくて、のぞみもゆっくりとお茶をすすった。
「貴理子は、けっこう頑固なところがあるからね。ゆうじさんとのケンカがこじれても、自分から仲直りしようとは言い出せなかったんだと思うよ。ゆうじさんもそれを分かってたから、貴理子の気持ちがかわるのを、ずっと待ってくれてたんだ」
「それなら、どうして離婚することになってしまったの?」
「うーん」
おばあちゃんは、大きくため息をついた。
「人の気持ちって、自分の思うようにはいかないこともあるんだよ」

ある時、父さんはひどく体調をくずして、病院に入院することになったらしい。そこで看病してくれた看護師さんに、心がひかれてしまったらしい。
「のぞみが小学一年生のとき正式に離婚したのはね、ゆうじさんが再婚することになったからなんだよ」
のぞみは、とてもおどろいた。
「母さんも、それを知ってたの?」
「もちろん、知ってたさ。で、あんたには何も話さないって、決めたんだ」
「どうして?」
「さあ、それはわからない。貴理子がどんなふうに、自分の気持ちにケリをつけたのか。そこは、ばあちゃんも知らないところ」

離婚すること、名前が変わること。その意味がわからなくて、何度も問いつづける自分に、困った顔で話をしてくれた貴理子の顔が、のぞみの心にふっとよみがえった。

「その頃、ゆうじさんがね、どうしても一目、おまえに会いたいって、ばあちゃんにいってきたんだ」
「父さんが?」
「そう。新しい奥さんのお腹の中にはね、もう赤ちゃんがいるらしくてね。この先、再婚したら、のぞみに会える機会がなくなってしまうかもしれないって思ったんだろうね」
(そうなんだ。わたしにはもう一人、この世に兄弟がいることになるのか)
ひとりっこだと思っていた自分に、妹か弟がいる。会ったことのない兄弟が。それはくすぐったいような、ちょっと寂しいような、妙な気持ちだった。

「だから、ばあちゃんが伝書バトになったんだよ。ゆうじさんの手紙を、直接のぞみにわたしたの。貴理子にはないしょでね」
「じゃあ、月の隕石は?」
「さあ。そっちは、ゆうじさんが貴理子にたくしたものだ。ばあちゃんはノータッチだよ」
「じゃあ、わたしは本当に父さんに会ったことがあるのね」
「そういうことになるね」
「どうして、わたし、その記憶がないのかしら」
「ふふふ」
ばあちゃんが、いたずらっ子のような目つきでわらった。
「さあ、なんでだろうね」
「もしかしたら、ばあちゃん、何か知ってるの?」
すると、ばあちゃんは両手を合わせて、こういった。
 
アブラカタブラ オッタマゲ ナンミョー ホケキョー コッペパン

「それって…」
「のぞみも思い出したんだろ?このおまじない」
「わたし、自分でテキトーに思いついて作ったつもりだったよ」
「これは昔、のぞみとばあちゃんとで考えたおまじないだったんだよ」
ふたりの秘密。父さんに会ったことはだれにもいわない。貴理子にも。ふたりの心の中だけにそっとしまっておく、大切な思い出のカギ。それがこのおまじないだったんだ。
「のぞみがあれから、ずっと秘密を守ってこれたってことは、ばあちゃんには、魔女の素質があったのかもしれないね。あるいはあんたが、相当にしっかりした子だったってことになるね」

「ただいま」
そのとき、玄関から可愛い声がきこえた。
「さ、のぞみ、向こうの世界にお帰り」
「でも…」
「これからばあちゃんは、のぞみちゃんとあのおまじないを唱えるんだよ」
「じゃあ、わたしは…」
「そうさ、もうこっちの世界にくる必要はないんだよ」
のぞみは、小さかった自分が父さんと会ってどんな顔で帰ってきたのか、一目見てみたかった。父さんがどんな人だったのか聞きたかった。

「のぞみ…」
ばあちゃんが、名前を呼んだ。
「今じゃないよ。小さなのぞみがパパに会ったのは、もう昔のことなんだ。あんたがゆうじさんともう一度、向き合う時間はまたちゃんとくるよ」
「わたし、もう一度、父さんに会えるの?」
「会えるさ、その時がきたら、きっと会える」
バタバタバタ。小さな足音が近づいて、のぞみちゃんがリビングにかけこんできた。
「おばあちゃん、ただいま。あのね…」
のぞみちゃんがリビングにかけこむと、ばあちゃんが一人で、ニコニコしながら待っていた。

「のぞみ、ご飯だよ」
一階から、貴理子が呼んでいる。
「はあい」
のぞみは降りていって、洗面所で手を洗った。鏡にうつっている自分の顔を見つめた。
(そろそろ仲直りしなくちゃ。ちゃんといえる?)
イエス。鏡の中ののぞみは、そう答えている。台所にいくと、夕食はすでにテーブルに並べられていた。今夜はたらこスパゲティ。のぞみの一番の好物だ。

「いただきます」
ふたりで手を合わせてあいさつをする。自分から言い出そうと、のぞみが半分、口をひらきかけたところで、貴理子のほうが一足早く切り出した。
「この前はごめんね」
「…うん」
この一週間、ほんとうに長かった。親子ケンカの記録を更新した一週間だった。だまっていても、お互いのホッとした空気が辺りにただよった。ふたりともあつあつの麺を、もくもくと口にほおばっていく。
「スバゲティ、おいしい」
「そう、良かった」
これで、ケンカはおしまいだ。ふたりかぞくの小さな儀式は、あっけなくカタがついた。

「母さんの言い方が、よくなかったね」
「わたしも、ちょっと強情だった」
「今回は、欲しいもの、買っていいよ」
「ほんとう?」
「今度の休みに、いっしょに買いに行こう」
のぞみの気持ちは一気に明るくなってきた。やった、やった。明日はさっちゃんに報告だ。

「あんたが母子家庭でがまんしてること、いろいろあるって知ってるのに。母さん、余裕がないと、すぐああなっちゃうね」
「余裕がないときは、仕方ないよ」
のぞみのなぐさめを聞いても、貴理子は首をふりながら、言葉をつづけた。
「母さん、のぞみの本当の気持ちは、たぶん、分からないから」
「本当の気持ち?」
「そう。だって母さん、自分の親が離婚した体験なんてないからさ。生きているのにお父さんがいないって、そういうの、ちゃんとのぞみの気持ちになって考えたこと、今までなかった」
「そんなにむずかしくいわれると、わたしも困っちゃうよ。わたし、そんなにかわいそうな子じゃないし」
「人が何に苦しんだり、悲しんだりしているかなんて、だれかと比べることはできないからね」
のぞみには貴理子が、自分に言い聞かせているように見えた。

(母さん、父さんの再婚のこと、わたしに知らせたくなかったんだ。言ったら、わたしが傷つくかもしれないって、心配してくれてたんだ)
今ののぞみには、説明のつかなかった出来事が、ようやく見えてきた。みんながそれぞれに、相手を思いながら、そのとき自分なりの決断をしていたことになるのだろうと。
「お母さん」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
貴理子は、のぞみのお礼が買い物のことだと勘ちがいしているようだったが、のぞみはそれでいいやと思った。
(わたしも、昔っから母さんに秘密にしてることがあったんだな)
秘密って自分のためだけじゃなくて、相手のために心に留めておくことでもあるんだな。

(親子だからって、何でもわかってなくちゃいけないこともないし、意見がぶつかることがあってもいいんだ)
お皿を洗っている貴理子の後ろ姿を見ながら、のぞみの心は、ちょっとだけ軽くなった気がした。

(つづく)




この記事が参加している募集

#私の作品紹介

95,380件

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。サポートしていただけるなら、執筆費用に充てさせていただきます。皆さまの応援が励みになります。宜しくお願いいたします。