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#107日記の中のわたし。

「そろそろ部屋にいって、日記を書いて寝るよ」

夜8時を過ぎると母はそういって、寝室に歩いていきます。毎晩、小さなノートに日記をつけるのが習慣です。何十年も続けているので、認知症が進んできた今でもそれは欠かせない日課のようです。

まだしっかりしていた頃の母は、何かにつけて自分の日記帳を開いていました。三年日記なるものも、よく使っていました。一年前、二年前のその時期に、畑に何の野菜を植えたのか、梅を漬けたのはいつ頃だったのか、帰省した孫たちと何処へ出かけたのか、それを見れば一目瞭然のようでした。

日記をのぞく時の母のうれしそうな顔が、わたしには不思議で仕方ありませんでした。
「なにがそんなに楽しいの?だって自分で書いた日記でしょ?」
すてきな小説や面白いエッセイでも何でもない、ただの手書きの日記なのに。

「あのね。過去の自分が何してたのか、それを知るのが面白いのよ」

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2019年9月1日から続けている、わたしのスマホの中のメモは1700件を超えました。おしゃれな日記帳に一ページずつ記録を記す程のエネルギーは残っていないわたしですが、メモ書き程度なら、夕食の片付けが終わってからの短時間に残すことができました。

子どもの頃はノートの三分の一も進まず辞めてしまっていた日記が、今は一日たりとも休まずに記録として残っています。

「去年、畑にサツマイモ植えたの、いつだったっけ?」(テル坊)
「ちょっと待ってね、確認する」(わたし)

「去年の絵画教室の展覧会って、いつ頃だったかな?」(ミドリー)
「ちょっと待ってね、確認する」(わたし)

いつの間にかわたしも、自分の日記を道具のように使って、自分たちの暮らしの跡を確かめるようになっていました。

「何、そんなにニヤニヤしてるの?」

時々、娘のミドリーに声をかけられることがあります。もちろん、自分の日記を読んでいるのです。日記の中のわたしは、さまざまな試練を乗り越えて生き続けています。朝から晩まで仕事で忙しかった日々も、親子ケンカがあとを引き、心が沈んでいた日々も、更年期のせいで体調がすぐれず、家事をこなすのがやっとだった日々も、山登りして手作りのおにぎり弁当をテル坊と食べた清々しい日々も。

それは誰も知らない、自分しか知らない大切な冒険の記録です。あまりにささやかで、他人にとっては取るに足りない出来事が、光る小石みたいに画面の中にころがっています。

「母さん、だから自分の日記を読むのが楽しかったんだね」

これから先、いつまで日記が続いていくかは分かりません。ある程度の健康な生活が営めている間は、無理せず継続していきたいものです。自分以外の誰とも、その全てを共有する必要のない日記が、今のわたしを勇気付けてくれます。

「大丈夫よ。これまでもこうして頑張ってきたんだから、明日からもなんとかやっていけるよ」

主人公はいつも自分なんだよと、日記に記された文字が教えてくれるのです。





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