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薔薇の王子。(3)

皆さんはきっと、こう思っていることでしょう。ずっと王子の世話をしていた乃咲さんの奥さん(ばあや)が骨折して家からいなくなり、今度は乃咲さんが救急車で運ばれていき、庭の植物たちはどうなってしまったのだろうと。雨の少ない夏、暑さと乾燥にやられ、バラの王子も花を咲かせることなく、死んでしまったのではないだろうかと。

でも、そんなことはありませんでした。その日の夕方、乃咲さんは元気な姿で家にもどってきました。熱中症だったようです。暑い最中、十分な水分もとらずに活動していたせいで、体温が上がりっぱなしになってしまったのです。

「お父さん、気をつけなくちゃだめじゃない」
一緒に病院から戻ってきた娘さんが、乃咲さんを叱っています。
「お父さんは長いこと机の前に座ってばかりの仕事をしてきて、身体を動かし慣れていないんだから。お母さんとはちがうのよ」
「ああ、反省したよ」
乃咲さんは、子どものようにうなだれて頭をぽりぽりかいています。

「でもまあ、想像してたよりも庭の状態いいじゃない。お母さんがいなくて荒れ放題になってるかと思ってたけど」
「意外とやってみると楽しいものだな。手間をかければ野菜も育つし、花も咲く」

庭を褒められた乃咲さんは、背筋をしゃんと伸ばし、少しいばった顔つきになりました。
「あとはバラの花が咲くだけなんじゃが…。ばあさんが一番好きな花がまだ咲かないんだよ」

娘さんが王子のそばにやってきて、葉の状態や土の様子を観察し始めました。ばあやとそっくりな顔をしています。ばあやより、もう少しシワが少なくて髪の毛が黒いだけで、ほっそりした身体つきも声も、しゃべり方までよく似ています。ばあやほどやわらかな感じはないし、シャキシャキした印象ですが、悪い人ではなさそうです。娘さんがぽつりと言いました。
「もう一回、肥料を足してみるといいかもよ」

次の日、娘さんは王子のための肥料を車で買い出しにいってくれました。乃咲さんは用心をとって家の中で休憩です。顔をすっぽりとタオルでくるみ、長袖長ズボン、大きな帽子をかぶって、娘さんがさっそく庭仕事を始めます。慣れた手つきには無駄がありません。それに、ばあやと同じように皆に声をかけてくれます。

「ああ、この感じ。心地良さがぜんぜんちがう。あのじいさんじゃだめだ。ぼくたちの世話をきちんとわかっている人に手をかけられると、こんなに気持ちの整うものなのか」

王子が機嫌よく独り言をいっている間に、娘さんは、王子の場所から50センチほどはなれた地面にぐるりと一回り、バラ専用の肥料をまいてくれました。
「王子。ちゃんと咲いてね。今年も真っ赤な花を咲かせて、お母さんを勇気付けて」
しゃがみこんで、王子に顔を近づけた娘さんの目が、にっこりと三日月の形になった時、王子は遠い記憶の中から同じ笑顔を見つけ出しました。

「この女の人はえみりちゃんだ。庭でいつもなわとびの練習をしていた、おてんばな女の子のえみりちゃん。なんと…。いつの間にか大人の女性になっていたとは」

こんな再会があろうとは想像もしていませんでした。王子はまたもやむねが熱くなるのを感じました。自分が咲くことを、これほどまでに待ってくれている人たちがいる。スズランや紫陽花や向日葵のように、自分も皆に祝福されているのだ。王子はようやく、今年もまた素晴らしい花を咲かせることができると確信したのです。

それから一週間、王子は思う存分水を飲み、土の中の栄養を吸収しました。王子のつぼみは大きく膨らんだまま、開くのをじっとこらえています。まだです。あともう少し、あともうちょっと…。一番美しく咲くことのできる空気の状態になるのを待っているところです。

夕方、すっかり元気になった乃咲さんがニコニコしながらやってきました。
「おお、素晴らしい。あと少しで花が咲きそうだ。これならばあさんに見せられる」
乃咲さんは王子が聞いていることなど知らず、おしゃべりを続けます。

「あいつは普段はとっても優しいけれど、怒ったらそれはそれは怖い女だぞ。おれなんか比べものにならんくらい、ツノを生やすくらいに恐ろしいぞ」
(ツノ?あのばあやにツノが生える?)
王子は目玉が飛び出そうなくらい、驚きました。

「だからお前もばあさんが怒って鬼にならないように、きれいな花をたーんと咲かせてくれ」
乃咲さんは話し終えると、ジョウロに水を汲んできて王子の足元にたっぷりとその水をかけ、家の中に戻っていきました。

(ばあやが鬼だと?あの優しいばあやが、ほんとうは鬼だったと…)
王子の頭の中では、さまざまな思いがぐるぐると回っています。自分がずっと信頼してきたばあやが、本当は人間ではなく鬼だったのです。
(そうか、そういうことか…)

王子にはずっと不思議に思っていたことがありました。なぜ自分のカラダには棘がついているのか。なんのために、これほど醜いものが生えているのか。その理由がはっきりしたのです。王子は鬼に育てられたせいで、その印としてツノの代わりに棘が生えてしまったのです。

「ああ、ぼくは悲劇の王子だ。呪われたイバラの王子というわけか」

王子はハラハラと真珠のような涙をこぼしました。自分の運命を呪いたい気持ちになりました。でも…そこまででした。王子はすぐに泣き止むと顔をあげ、自分自身に言い聞かせたのです。

「ぼくは薔薇の王子。悲しみに負けてなんかいられない。誇りたかき美しい姿を、今年も見せてやろうじゃないか」

  **

日曜日の朝、一台の車が乃咲さんの家の前にとまりました。ワンピース姿のえみりさんが車から降りてきました。
「お父さん、迎えにきたわよ」

しばらくして、よそいきの服を着た乃咲さんが玄関から出てきました。手には真っ赤なバラの花束がにぎられています。
「うわあ、きれいねえ」
えみりさんもうっとりと顔をほころばせました。

「お父さんったら、ばっちりカッコよく決めちゃって。そんな花束を抱えてたら、まるで薔薇の王子みたいよ」
乃咲さんが照れ臭そうにニカッと笑いました。前歯が一本欠けています。

「な、なんと失敬な!」
花束になった王子が、ワナワナとふるえました。
「薔薇の王子は、このぼくだぞ!」

そんな王子の抗議の声は、周囲にひびく蝉たちの声にかき消されました。二人はそろって車に乗り込むと、ばあやの待つ病院に向かって走り出しました。

(完)




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宮本松
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