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#83感謝とは湧いてくる思い。

「ありがたいことだよ。感謝しないとな」
何かにつけて感謝、感謝と父が口にしていたのは、わたしが高校生の時でした。

何事にも感謝する。感謝すべきことは、日々の暮らしの至るところに見つかる。身近にいる人たちにしてもらったこと、助けられたこと。今元気でいられることも有難いし、ご飯を食べられることも有難い、それから毎日、家族がそろって食卓を囲めるなんていうことは、当たり前のことじゃないんだぞと、機嫌のよい時の父はご飯を食べながら、同じ話を何度も繰り返すのでした。

父の言っていることは間違ってはいませんでした。それはわたしにも分かっていました。でも、わたしは当時「そんなこと、できやしないよ」と思っていました。小さな喜びをありのままに喜ぶゆとりなんて全くなかったし、内側から泉のようにわき出てくる不安に対処しながら、目の前のやるべきことを何とかこなしていくだけで精一杯。わたしにとって若いとは、そういう状況を生きることでした。

言葉の力は思いのほか強く、そして尾を引きます。「感謝しなさい」を耳にし過ぎてしまったせいで、感謝するという感情や行為を、自然なこととして感じられなくなってしまいました。

(感謝って相手のためにするものなの?それとも自分のために感じるもの?)

なんでも理屈で納得したかった若い頃のわたしには、「感謝」はちょっとした異物のような存在になってしまいました。ありがとうという気持ちが湧いてこないうちに、ありがとうと言う意味があるのか、思う必要があるのか。自分の答えが出ないままの状態が長く続きました。

ところが50代になって、何かにつけて「ありがたいな」と感じることが増えてきたのです。知っているつもりだった「感謝」の気持ちが、こんな風に自然と湧き出てくる感情であること、その本当のところを分かっていなかったことに、ようやく気づきました。

何気ない、当たり前に過ぎていく日常が「本当は当たり前なんかじゃなかったんだ」という、これまでとは違った視点に立てるようになった時、瑣末なことの一つ一つに、「ありがたいなあ」「感謝だわ」と思える気持ちが湧いてきます。すると、自分が生きていることも、誰かとつながっていることも、何もかもが不思議に感じられ、ありとあらゆることが尊く思えてくるのです。微かな優しい気持ちが内側から湧いてくることを、実感できるようになります。

贈り物をもらう、仕事をして認められる、豪華な食事をする。そんな特別な出来事から感じられるありがたさというものも、基本的には同じ気持ちを土台として心の中に広がっていくものなのだということも理解できるようになります。

(あの頃、父さんはちょうど40代の終わりだった)

ちょうどわたしが高校生だった頃、父自身の心のあり方、感じ方が変化していたのかもしれません。それをあまりにストレートに娘であるわたしたちに言葉で伝えようとするものだから、「感謝しなさい」という強い口調になってしまっていたのかもしれません。

今なら父さんが話していたことの意味がわかるよと、本人に直接伝えたい気持ちになるのですが、当の本人(父)は、そんな昔のお喋りなんて、ちっとも覚えていないでしょう(笑)。でもこんな時間差で、遠い昔の記憶の意味が明らかになっていくというのも、歳を取ることの楽しみの一つなのかもしれません。




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