自己紹介2

こんにちは、深山静と申します。

地元和歌山で自助サークル「心燈 - cocotto -」として去年の冬から活動しています。まだ認知度ゼロですが、生き辛さを感じている人に自己表現の形を一つでも多く知って欲しいと思っています。

今回は自己紹介の続きで、なぜわたしが心の病になったのかを振り返ります。正直現在もまだ共存、共闘中でして、時々ちょっとしたことで躓いてお休みを頂くこともあります。その辺りについても触れていければと思います。





さて、わたしの心の病について。

パニック障害とうつ病を発症しており、今は通院と服薬治療を行っています。

パニック障害になったのは祖母の介護を夜に行う(昼間はデイサービス利用)ために、昼間テレアポの仕事をしていた頃でした。

県内では大手の家具通販の会社でして、正社員で勤務しており、仕事の殆どはクレーム対応処理でした。その時点で心理的負荷のかかる内容だったのですが、正直土日が休み、給与、勤務地の近さを考えれば、わたしに選択肢はなかったと思います。

でも振り返ってみれば「選択肢はなかった」と思い込み、自分を追い詰める考えしかできなかったのでは?とも取れます。

この頃も祖母の認知症の症状は進んでいき、わたしは大好きな祖母が自分の知らない人になっていくことに恐れを抱いていたような気がします。また昼間の仕事でもやりがいはあるものの、クレーム対応処理にストレスが溜まっていき、少しずつ限界は近付いていたところでした。

GWが過ぎ、休み明けの受注、問い合わせ、クレーム対応含め、お客様への対応が部署全体で回してもどうにもならないくらいの量になっていて、それはそれで嬉しい反面だったのですが、仕事を回すべきリーダー不在という不思議な構図が常態化していたので、その歪みがタイミング悪く顕在してしまいました。

わたしは取引先との電話で、保留音を聞いている最中、呼吸が荒くなってくるのを感じ、向かいに座っていた先輩に「わたし、今ゼーハーゼーハー言ってるの、まるで変態の呼吸音みたいっすよね」って言った途端に過呼吸で息ができなくなり倒れました。

先輩たちが駆け寄りビニール袋を口に当ててくれて、背中を擦ってくれたのですが、そのままわたしは起き上がれなくなってしまい、親に迎えに来てもらいました。

翌日休みを取り、職場の先輩に紹介された病院に行ったところ、そこで「パニック障害」であるという診断を出されました。

正直、わたしにとって「パニック障害」って何にもパニックになることなんてないのになあという違和感しかなく、医師の説明も話半分にしか聞けませんでした。

今、わたしはメンタルヘルスマネジメント検定の勉強をしているのですが、その公式テキストに「パニック障害」について以下のように記されています。

「突然起こる不安発作(動悸、めまい、息苦しさ、非現実感など)が繰り返されるもので、その際の不安感は”このまま死んでしまうのではないか”と思うほど強烈なものです」

確かに過呼吸が起こる前から強い不安感はありました。それは例えば家で祖母と過ごす時間の中で、祖母と二人で孤立し、社会から隔絶されるような感覚に陥ることがあること、目を離したすきに祖母がいなくなってしまうのではないかという不安、また祖母を殺してしまいたくなる衝動と我に返ったときの罪悪感と後悔(これが一番きつかったです)などです。昼間も祖母のいない時間の中で、クレーム対応で時々すごい人に当たったりすると、途端胸の中にどろっとした、もやっとした、ぐさっとした、そんな様々な感情が一瞬にして生まれ、わたしの全身を駆け巡り動けなくなることがありました。

過呼吸で倒れるというのは、その不安が目に見えた形で現れたのでした。

結局祖母のこともあり、わたしはこの職場を辞めたのですが、一番悪いことにわたしは通院と服薬を辞めてしまいました。

なぜ辞めたのか。

それは父の病気への不理解と何よりもわたし自身も病気を表

面的になぞっただけで、その本質を知ろうとせず、父を含め世間体を気にしたからでした。

もしこの記事を読んでいて、心の病にかかっている人がいれば、症状が落ち着いてきたからと言って絶対に自分だけの判断で通院と服薬を辞めないでください。症状が落ち着いたというのは病気が治ったわけではなく、鳴りを潜めただけ、姿を消しただけで、また表面に現れるのを見計らっています。症状が落ち着いたときこそ、自分の状態を医師の説明、本やネットからの情報を通じて知り、メンタルを回復する手段に何があるのか調べ、色々なことに挑戦してください。

ウォーキングを始める、マッサージを受ける、温泉に行く、ゲームをする、お笑い番組を見る、食べる、寝る、何もせずにぼーっとする。

そんなことでもいいのです。ただし通院、服薬を並行させてください。それが回復していくことへの何よりも王道であり、近道です。

さて、通院と服薬をやめ、わたしは自分がもう大丈夫だと勝手に判断しましたが、結局その後過呼吸の発作は何度となく現れます。

祖母が緊急搬送されたとき、家で父と揉めたとき、祖母の葬儀のとき、再就職がうまくいかないとき。

何にせよ不安が膨れ上がってどうしようもなくなり、爆発したときに過呼吸は現れました。ただ、わたしは病院には行きませんでした。病院に行かないことイコールわたしは大丈夫を周囲にアピールするためで、過呼吸を起こしたときは祖母の緊急搬送以外は誰にも知られることはありませんでした。(祖母の葬儀のときは自宅に帰って来てから、祖母がいないことを実感し、部屋で起こりました)



その後わたしは地元の市役所に採用が決まり、翌年春から福祉課に勤務し始めました。

配属先は福祉課子ども係。児童やその家庭に関する部署で、それ以外にも女性保護の仕事もありました。

うつ病を発症したのはこの子ども係にいたときです。すぐに発症したわけではありませんでした。

ストレスの発生源があり、そのストレスと一年間付き合い、発生源が取り除かれた後で反動で起こったのです。

ストレスの発生源。それは職場の先輩でした。これは個人的な部分に立ち入るので、あくまでわたしの憶測と周囲の評価からの一方的な決めつけでの書き方になりますが、その人は恐らく「アスペルガー症候群」かもしれませんでした。医療機関からの診断を受けているわけではなく、同じ部署にいた臨床心理士さんが行動などを観察して、そうかもしれないと言っていました。実際には知能テストなどを受け、専門医の総合判断が必要とされますが、彼の行動には素人のわたしでも「おかしい」と感じる部分がありました。

この先輩の仕事の仕方に振り回され、わたしだけでなく上司たちも仕事の尻拭いをする日々でした。

彼に仕事を任せると何があるか、何をされるか分からないとのことで、殆どの仕事がわたしや臨時職員さんに回され、かつ日々の業務では彼の電話応対や接客、仕事内容を常に監視する状態が続いていました。

今にして思えば、「彼に仕事を任せられないから他の人に仕事を回す」というのは何の解決にもなっていません。これは当時の上司たちの判断ミスだとはっきり分かります。上司たちを批判しているわけではないのですが、わたしも上司も、職場の人たちはそういう状況にどう対応していいか分からず、適切な処置を取る余裕がないほど、彼に振り回されていたのだと思います。

でも他の人に仕事を回すというのは、仕事の量が完全にオーバーし、過重労働を強いるということです。

毎日彼との接し方に神経を使い、仕事自体も重なり締め切りに追われていると、それがおかしい状況であるという感覚が鈍っていきます。わたしや上司たちはそういう鈍化した感覚で、優先順位を「目先の仕事をこなす」ことにしたのでした。

翌年度、彼は異動で別の部署に行きました。代わりに異動してきたのはわたしの同期の女の子と、ベテランの先輩。彼がいないことだけでも嬉しく、新たに戦力となる「ふつうの人」が来てくれたことにわたしは舞い上がっていました。

しかし実際に仕事を二人に引き継ごうと思っても、何から渡していいのか分かりません。鈍化した感情はこんなところでも現れていたのですが、わたしはそれに気付かないまま「切りのいい状態、よい状態」で仕事を引き継がねばならないと自分を追い込み始めていました。

窓口業務などを中心に引き継ぎは始まりましたが、わたしが完結した方がいい部分まではやることになっていたので、その仕事に四月の土日は潰れました。でも土日出勤してきても、あまり仕事は進まなかったような気がします。

何から始めていいのか分からず、少しでも数字が合わなくなるとやる気がそがれてしまう。途中まで進めた他の業務が気になって、何もかもが中途半端なまま積み上がっていく。

五月になっても仕事を完全に引き渡せるような状態にはなっておらず、年度決算は五月末なのですが、その期日の来ることを恐れるようになっていきました。

ある日、「起きれない」と感じたのは五月の半ばだったでしょうか。

「起きれない」

「起き上がれない」

「もう全てにおいてどうしていいのか分からない」

その日は今までの疲れが出たのだろうと休むことにしましたが、結局その日も、その翌日も起き上がることもできず、またその前から不眠の状態になっていたにも関わらず休んでも寝ることができませんでした。寝れたとしてもすぐに目が覚め、覚醒し、色んなことを考え、悲しくなり、どうしていいか分からず、涙が止まりません。休んでいることにも申し訳ない気持ちが強く、本当に本当に自分のやることがすべて「最悪」「最低」としか思えません。

休み続けている状態を心配した上司が電話をくれました。

病院に行ってはどうか。これ以上休むとなれば、診断書の提出が必要になる。

その言葉はわたしにとって「お前は役立たずだ」「休むならさっさと休め」「戦力外通告」「あいつとお前は同じ」という風に変換されました。

不眠症で病院には行っていたのですが、それはあくまで不眠症について。ただ上司に言われたこともあったので、「不眠症」と「今の疲労感」を取り除くためにも病院に行くことにしましたが、これにはかなりの抵抗感がありました。

恐らく心のどこかで「わたしはダメかもしれない」という、「何に対してダメなのか」分からないものの、そういう不安、絶望がありました。

それは的中し、医師からは「うつ病です。自宅で安静にしてください。今すぐ診断書を書きます」と言われ、わたしは病院で泣きました。

これまでのこと(アスペルガーかもしれない先輩とのこと、異動してきた二人にわたしの仕事を渡せないこと、仕事が何も完結できず締め切りが迫っていること)を話す中でも涙は止まりませんでしたし、医師から「うつ病である」と告げられたことにも情けなくて泣きました。

わたしが休むとなると、今わたしが抱え込んでいる仕事を最悪な状態で二人に渡すことになる。それはわたしが先輩にされて嫌だなあと感じたことを同じだ。あのとき、こんな中途半端な仕事をするならもう辞めてよと思ったことを、人のいいあの二人にも思わせる。わたしは何て最悪な人間なんだろう。人のこと言えないよ。

仕事では心の病にかかっている児童や保護者と接することは珍しくなく、わたしはその手の問題、課題については理解をしている方だと思っていました。

しかし自分が「うつ病だ」と診断されたことで、わたしは思い違いをしていたことを実感しました。いい人を演じていた。何も分かっていなかった。もしかしたら心のどこかで彼ら彼女らを見下していたかもしれない。いや、そうだ。だからわたしは自分が「うつ病」になってこんなにも絶望感を抱いている。

病院の駐車場で上司に電話しました。泣きじゃくりながら電話しました。

「うつ病ですぐにでも休みなさいと言われ、まずは一か月の自宅安静を言われました」

「診断書は待ってくださいと言って、今、駐車場で電話しています。どうしたらいいですか。わたしはどうしたらいいですか」

断片的ですが、そういうようなことを言ってたと思います。

上司は優しく「頑張り過ぎたね。頑張らせ過ぎたね。これまで取れていなかったお休みだと思って、一度休みましょう」そう言ってくれましたが、わたしは腑に落ちません。

とにかく自己否定の言葉ばかりがわたしの頭の中を占めていました。ぐるぐるしていました。だけれど、明日以降休むとなると土日を挟むため、診断書の提出が必要となります。月曜日にまた出てくるといっても、本当に出て来れるか分かりません。

わたしは再度病院内に戻り、事務のお姉さんに「診断書を出してもらいたいので先生に伝えてもらえますか」と言いました。ここのお姉さんは石野真子と椿鬼奴に似た二人で、とっても素敵なお姉さんたちです。泣きじゃくるわたしに「待っている間にソファで今月号のフリーマガジン読む?」と聞いてくれました。その一言にまた泣いてしまいましたが、それは自己否定の涙ではなく、お姉さんたちの優しさに嬉しかったからです。

未だにこのお二人には頭が上がりません(笑)

病院には受診に行くというより、お姉さんたちに会いに行くのが最大の目的のような気がします^^


その後医師との話し合いで、まずは一か月と書きますが、最低でも三か月ゆっくりすることをおすすめしますと言われ、一か月単位の更新ではありましたが、三か月の休みを取ることになります。

休みの間は、とにかく最初の一週間はずっと寝ていました。

出勤する必要もないので強い目の睡眠薬を出してもらっていたこと、とにかく寝れない状態が続いていたので、睡眠で体力と思考力を回復させることを優先させました。

一週間後から普段通りの生活リズムに戻しましたが、外に出るのが嫌で、そもそもやる気が起こらないので、毎日テレビを眺めていたり(内容は入ってきません)、本を読んで過ごしました。

少しずつ気持ちが落ち着いてくると、友人たちに外へ連れ出してもらいました。

平日に外に出かけることに抵抗感はありましたが、友人たちは敢えて職場の人たちに会わないように市外に連れ出してくれました。色んなことにも挑戦しました。釣りをしたり、山歩きをしたり、美味しいご飯を食べに行ったり。

職場の友人や同僚、また部署は違いますが同期や先輩、上司たちも仕事とは関係のないくだらない内容のラインやメールをくれて、わたしに疎外感を与えないように気を遣ってくれました。

わたしは本当に市役所に入ってから、周囲の人々に助けられました。勿論、その中で、追い詰められることもありましたが、基本的に優しい人ばかりで、周囲の支えという面については恵まれていました。

やがてもう一度仕事をしたいという気持ちが芽生えてきました。

わたしが投げ出した仕事は二人が何とか終わらせてくれたこと、それにそもそも市役所の異動は発表されてから日がないので、みんな結構投げ出してたりするからそんなに気負わなくても、気にしなくてもいいことを上司が定期的に言ってくれたことがありがたかったです。

6月、8月は児童手当の現況届、乳幼児医療の切り替え、また児童扶養手当の現況届と提出物が続き、その事務処理もしなければなりません。

別室の人の出入りが少ないところで、短時間勤務(午前中から)の慣らしが始まり、順調に行けたので、時間を伸ばし、そして秋になる頃、わたしは復職を決めました。

しかし実際に復職してから、「うつ病」の根の深さを思い知ることになります。

このことについては次回以降書いていければと思います。


さて、1年目に同じ部署にいたアスペルガーかもしれない先輩についてですが。

わたしは彼のことが嫌いです。

それはやはり迷惑を掛けられたこと、彼がいなければわたしはうつ病になって休職しなくてもよかったかもしれないことなどが挙げられます。

ただし、すべてを彼の責任にしたいorするわけではありません。

彼の存在がうつ病発症のきっかけとはなりましたが、そもそももし職場の人たちが彼の特性に気付いていたならば、もっと早くに食い止めることができる、何か対応が取れたかもしれません。

既に今の時点で何もかもが「たられば」になりますが、彼もまた頼りにしていた主任が産休に入ることで、大きな不安を抱え、実際に産休に入りいなくなると、アドリブを要することばかりで精神的に参っていた部分もあったと思います。

ですので、わたしは彼が嫌いですが、彼がそうかもしれないという「アスペルガーの特性」やそれによって引き起こされることについては、彼もまた被害者のひとりであり、すべての責任を押し付けることはできないと考えています。

これはわたしが自助サークルを立ち上げた目的の一つでもあります。

もし生き辛さを感じているのなら、自分のことについて向き合える場所やツールが必要なのではないかと思ったからです。

話しは戻り、彼のことは嫌いだけれど、もし今もまだ彼が生き辛さや日々の生活での違和感を抱いているのなら、もう一度話をしたいなと思いますが、あまり関わりたくないことは事実なので、それはもう少し先のような気もします。





次回はこの続きを書きたいと思います。

途中、これって自己紹介なのかな?とも思いましたが、ここまで書いて、心の病気になったことを辿っていくのは、自己紹介になると思います。何より振り返りができるのは辛いけれど、どこか腑に落ちる、すっきりする部分もありますね。

まだまだ話は続きますが、よろしくお願いします。

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