29歳の夏に『風の歌を聴け』(村上春樹)を読む
※注意 この文章を読む際はネタバレ等、核心部分への言及があります。個別に判断したうえで、読んでください
確か『風の歌を聴け』をはじめて読んだのは、中3か高1だったと記憶しているのですが、それ以来6回くらい読んだ小説です。
この作品は、29歳の主人公が大学時代の自分を振り返る形の小説なのですが、とうとう自分も29歳の夏を迎えました。
「8月」の小説
と、いつについて書かかれた小説か明確な描写があるので、29歳のそのタイミングで読みたいと昔から読みたいと思っていました。
この『風の歌を聴け』に限った話ではないのですが、「夏についての小説は、夏に読むべき」という持論があります。音楽だと夏はサザンオールスターズやTUBE、冬は広瀬香美というような、季節に絡めた作品の話を結構しているのに、あまり小説に「季節感」の話が出ないように感じています。そしてこの「小説と季節」について思うようになったのは、『風の歌を聴け』がきっかけでした。
妙なテンションの高揚と、それが引いていく特有の憂鬱が夏にはありますが、そういった季節感が『風の歌を聴け』にはあります。
一本道には進まない
村上春樹のデビュー作ということで、かなり著名な作品ではありますが、知名度の割に(というのも少し変ですが)、あまりオーソドックスな構成ではない小説で、突然デレク・ハートフィールドというSF作家の話や、ラジオの放送が挟まるなど、脇道にそれる部分が随所にあることを読むたびに感じます。
ただこれは「回想録」という形式をとっている小説ですし、過去の記憶なんて誇張したり矮小化したりするうちに、いびつなものになるのは当然だと考えています。
自分としては、村上作品は純文学小説のなかでも、ある程度大衆文学的な要素も多いと考えているのですが、この『風の歌を聴け』のいびつさは、かなり純文学的な部分だとも思っています。わざと調子を外すことで、作品の雰囲気を“醸し出す”やり方は、他の村上作品にもない味わいがあります。
男たちの罪と罰
『風の歌を聴け』に限らず、映画化された『ドライブ・マイ・カー』含めて、村上作品に登場する男性には、すこし女性を軽く扱っている傾向があります(もちろん小説の登場人物に「道徳」を求めたりはしませんが……)。
ただそうやって「軽く扱った」事によって、苦しんだり悲惨な目に遭っている小説だとも感じています。『風の歌を聴け』も結局は小指のない女の子とは結ばれず、『ノルウェイの森』のワタナベも「愛」とはなにかさんざん苦悩しています。
単に女性を扱っただけで完結せず、そうしたことによる「罰」を男性たちは受けているのです。
ちなみにですが、この因果律のようなものは北野武の映画の暴力にも近いものを感じています。暴力で自分の考えを通そうとした人間は、必ず暴力に打ちのめされている気がします。
文学についての小説
この1文からはじまる『風の歌を聴け』は、随所に小説や文章について語られています。架空のSF作家デレク・ハートフィールドの逸話をちりばめ、主人公の友人の「鼠」も小説を書き、<「死んだ人間に対しては大抵なことが許せそうな気がするんだな。」(P22)>と自分が読む作家を選ぶ際の独特な基準を、「僕」に話している描写もあります。
歌うという行動を讃える歌詞の歌、映画作りの苦悩を描いた映画があるように、文学の味わい方、接し方、考え方といったものを様々な視点から指し示してくれる、いわば「文学についての小説」であるようにも思います。
どうやっても孤独になってしまう読書(実際にこういう台詞も登場している)という行動に対して、寄り添ってくれるような、不思議なやさしさのようなものがある小説です。
29歳の『風の歌を聴け』
いまこの小説について挙げた感想は、ここまで明確に言語化出来たかは別として、結局10代中盤ではじめて読んだときと、ほとんど感じるものは今回も同じでした。
自分が成長していないだけかもしれませんが、15年近い歳月が経過し、大学の文学部を出たあと、文章に関する職業を生業としながら、こうして自分なりに人文学について考えを巡らせることもありますが、はじめて読んだ時と同じようにさわやかさと憂鬱を含んだ、夏の光景が脳裏に浮かびました。
何年かあとの、またこの季節に読みたいと思ったのも、はじめて読んだ時と同じです。30代の自分がこの作品をどう楽しむかはわかりませんが、再び夏が終わりゆく静かな倉庫街の光景を読みたいです。
そして、こうやって文学への触れる方法ををかつての自分にやさしく教えてくれたのは、『風の歌を聴け』だった気がします。
参考:石原千秋「謎解き 村上春樹」光文社新書2007年
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過去に村上春樹について書いた記事です
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