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もし村上春樹がノーベル賞を受賞したら起こりうる変化と、文学の価値について


 村上春樹の本が好きだ。多分30冊くらい読んだし、それも『1973年のピンボール』は1冊だけで7回くらい読んだと思う。ハルキストという言葉は正直なところ苦手だけど、彼の小説の大ファンであることは間違いない。


 しかし毎年ニュースになる「村上春樹はノーベル文学賞するかしないか」というトピックについて、うまく自分の気持ちを表明出来ないでいる。

 ノーベル賞が世界の様々な表彰のなかで(1901年発足であることを考えると、文学史においては比較的新しい存在であるが)、由緒のある賞であることは間違いない。ただ当然のことながら、文学者の価値は賞の受賞歴では変わらない。

 これは「ノーベル文学賞」に限った話ではないが、「文学の賞と文学者」を考えるうえで大前提である。そもそも村上春樹だって芥川賞を逃しているし、そのことが彼のキャリアに影響を及ぼしているようには、私の体感ではあるがあまり感じられない。



 仮に村上春樹がノーベル文学賞を受賞したらどうなるのか。様々なメディアが特集を組み、そうした特集を見たのをきっかけに、新たにファンになる読者もいるだろう。自分が好きな物を好きな人が増える喜びは否定しないし、私もひとりの村上春樹のファンとしてとても嬉しいことだと思う。だが突き放した言い方をすれば、それまでなのである。

 読書とはどうしたって最終的にはひとりぼっちの、自分の閉じた世界ですることだ。仮に何十人、何百人の読者と同時に本を読み、議論しようとも、頭の中に思い描く情景はそれぞれの脳内に無限に広がっていく。そして「孤独」という社会的には弱点となるかもしれない状態を持った人間に寄り添うのが、文学の意義のひとつである。

 無数の孤独な読書から生まれたはず支持を、ファンが増えて嬉しいという「共感」に主眼を置きすぎると原点にあるべき価値を失いかねない。



 読者が増えれば本も売れ、出版業界の経済が潤うかもしれないが、それは「経済」のものさしだ。資本主義社会で生活するをうえでとても価値のあることだが、「文学」のものさしとは分けて考えるべきではないか。

 生前全く評価がなされなかった作家、作品の評価は高いのに生活には困窮した作家、現代の倫理観ではおよそ納得を得られないであろう思想を持った作品もある。

 経済や他のあらゆる別の考え方とは独立して、「文学」という独自の価値観の中においては価値を見出されることがある。文学や文学者の価値とは、経済の数字や読者の人数で簡単に決まるとは思えないし、簡単には決まらないからこそ、長く深い議題が交わされているのである。

 文学に限った話ではないが、自分が好きなジャンルや作品を褒める際に「世界的な評価を受けている」や「誰々も面白いって言ってた」という風に言ってしまうことが、自分も含めてまあある。だが、これは良い姿勢とは言い難い。「誰がなんと言おうと、俺はこの作品が好き!」という潔い姿勢の対極にある。

 そもそも論になってしまうが、作品の価値というものは、作品と受け手の1対1の関係だけ完結する、もっとシンプルなものだ。他人の目なんか気にしなくて良いはずなのだ。

 村上春樹本人も<脳減る賞>と表現を、自著『村上かるた うさぎおいしーフランス人』のなかで表現している。あまりこの問題に頭をすり減らすことなく、黙々と好きな村上作品を読み、自分だけのオリジナルの評価を定めていきたい。

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