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お弁当に、パンダのおにぎり

 小学校・中学校は学校給食。高校のお昼は校舎近くのパン屋かコンビニで調達することが多く、たまにお弁当の日もあった気もするのだが、全然内容を覚えていない。ダイエットを理由に小さなおにぎり程度しか持って行ってなかったのかもしれない。だから、私が持つ、母のお弁当のイメージは幼稚園の時のもので、しかも、記憶にあるのは”パンダのおにぎり弁当”だけだ。

 母は若い頃、料理が苦手だった。というより、作る料理がどことなく変だった。

 沖縄の離島で大家族に囲まれふんわりと育った母は、料理をしたことも教わったこともなかったようだ。そして、1970年代に東京で結婚したばかりの頃はまだ、沖縄と東京では、手に入る食材も料理方法もかなり違ったのではないかと思う。圧倒的に経験値と情報が少ない中で数冊の料理本を片手に、手探りしながら毎日の食事を作っていたのだろう。

 我が家で登場するお味噌汁には時々レバーが入っていた。お好み焼きと呼んでいたのは”チヂミ”に似たぺらぺらなものだった。沖縄料理がメジャーになった今になって考えればどちらも、”中身汁”や”ひらやーちー”といった料理を母なりに再現しようとしていたと理解できるのだが。

 お味噌汁の中のレバーは固くて味がしなかったし、茹でたきゅうりがどっぷり酢味噌に浸かってるの(”ナーベーラーの酢味噌和え”アレンジ?)は、毎回オエっとなりながら我慢して食べていた。そして私は大半を残した。お友達の家で、はじめて関西風の厚くふっくらしたお好み焼きを食べた時(しかもマヨネーズをかけるなんて)は、家とのあまりの違いに「こんなに美味しいお好み焼きを食べたの初めて!」とつい正直に言ってしまったら、帰宅後「恥ずかしいこと言わないで」と母に文句を言われた。

 父はあまり食にこだわりがなく、出されたものはきちんと食べ、文句をつけることも無かったが、たまに”しいたけのひき肉はさみ揚げ”といった、母も家族も満足する傑作の一品が出てくると「ママの料理は美味しかったのも次いつ同じのが出てくるかわからない一期一会だからね」とは言っていて、実際それはあながち間違いじゃないのだ。

 子供の頃の私は酷い偏食で、前述のややズレた母の料理も好き嫌いの多さに拍車を掛けていた可能性はあるが、それ以前に”鮪のお刺身”にケチャプをつけたがったり”子持ちカレイの煮付け”を出されれば「おかあさん魚と生む前の卵を一緒に食べるなんて可哀想で出来ない」と泣くような、ややこしい娘だった。

 だから、母は毎日の食事に頭を悩ませていたはずで、忍耐強く負けず嫌いだったから絶対に口には出さなかったけれど、なかなか喜んで食べてくれない娘を前に料理を苦痛と感じることもあっただろうなと思う。

 そんな母が、こんな娘につくる幼稚園のお弁当。

 このレシピのパンダがよく似ている。顔と胴体は白い塩おにぎり、耳と手足は海苔で包んだ小さな黒いおにぎり。ハサミで切った海苔の目と鼻をくっつける。パンダのまわりには、お花に見立てて飾り切りしたウインナーとゆで卵、塩もみしたスライスきゅうり(これは好きじゃなかった)、アルミホイルで仕切った隅にイチゴやみかん。

 こんなωのお口やピンクのほっぺは無かったけれど、幼稚園のお昼に、キキララのアルミのお弁当箱の蓋を開けた瞬間、中にいるのはどこからどうみても可愛いパンダだった。

 パンダのおにぎり弁当を幼稚園にはじめて持っていったのはいつだったんだろう。覚えてないけれど。キャラ弁という言葉もまだ無かった40年以上前、私のこのお弁当は、他の誰のお弁当より絶対に可愛かった。みんなに可愛いと褒められ、羨ましがられ、私は大喜びで完食したのだと思う。

 頭部だけ、小顔なのに太り気味、黒服手足なし、口がカリカリ梅の欠片、手がミートボール……毎日ではなかったけれど、週に2、3回は様々なタイプのパンダが、それこそ何十回も登場したが、パンダ以外の動物やキャラが登場することは無かった。

 単純にパンダ以外は作るのが難しかったのかもしれないが、多分、子供の頃の私がパンダが大好きだったからだと思う。事あるごとにパンダのぬいぐるみを欲しがり、パンダの絵ばかり描き、上野動物園のランランが死んでしまったニュースで号泣する程に、パンダが好きで、なら、お弁当もパンダにすれば、少しは喜んで食べてくれると思ったのではないか。だからなのか、パンダのおにぎり弁当は、母の料理の中でも一期一会じゃなかった。

 料理が苦手な若かりし日の母、唯一得意な料理は、小さくて偏食で泣き虫で気難しい娘が、どうか笑顔で食べてくれますように、そう願った”パンダのおにぎり弁当”だったのだと思う。

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