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すくなくともひまではなくなったわが人生

なんか人生がひまだな、と思って28の頃にいろいろと動き出したら、あれよあれよというまに人生自体が忙しくなった。いつもなにかと考えることがあり、すくなくとも、ひまではなくなった。それは自分にとってかならずしも良い状態ではないけども、いずれやらなければいけないのはわかっていたから、いまやるのだった。わたしは、やらなければいけないことは早く終わらせて、それから遊びたいのだ。夏休みの宿題も、そう思って7月中にやれる限り終わらせていたのを思い出す。

あれは一体何だったんだろう、といまでもたまに思う。趣味もライフワークもあって推しもいて、家族はみんな元気で、自分に合った職場も見つかって、休日もそれなりに予定があって、好きな友達や先輩もいて、充実していたはずなのに。突如として、ひまだと思ったのだ。その理由はわからないものの、あのときひまだと思っていなければ、わたしは夫に出会っていないし、結婚もしていないし、子供もいないし、車も持っていないし家も買っていない。それだけは確かだ。

時に、いまわたしはハルノ宵子さんの『猫だましい』を読んでいる。作家よしもとばななさんの実の姉で、戦後最大の思想家とも呼ばれる吉本隆明先生の娘でもある。ハルノさんは長年ご両親の介護をされていて、そのことを綴ったエッセイもたいへんおもしろいのだが、『猫だましい』は、ご自身の病気に関することをえがいたエッセイである。この本の始めで、ハルノさんは内視鏡が通らないほどの巨大な大腸がんが発覚するのだが、ぜんぜんしめっぽくない。あっけらかんとしている。介護や病気の話を書いても悲壮感が漂わない、というのは、この人の文章の持ち味だと思う。

ハルノさんの、「病院から一刻も早く出たいがために、余計なことを言わずにいる」という姿勢はわたしも大いに頷けるところだった。わたしは病院ぎらいではないが、いけすかない医者のところからはさっさととんずらしたい人間なので、「こいつぁてんで駄目だ」と思ったら相談したいことがあっても黙っている。

特に妊婦健診なぞは、赤ちゃんが元気ですよーと言われたらもうそれでいいわけで、数限りなくあるマイナートラブル(食後に胃に激痛が走るだの便秘だの切れ痔だの頭痛だの吐き気だの倦怠感だの)についてはもう、一切合切放擲してある。それはいま通っている産婦人科医がわたしからすると「てんで駄目」であり、なにを言ったところで無駄だからだ。何か気になる事ありますか?と聞いておいて、「運動は医師の許可が要るらしいですが、運動しても大丈夫そうですか?」と聞いたら、やや沈黙のあと、「好きにすりゃいいんじゃない?」と返されたときに、わたしの中でその医者は駄目野郎に認定された。

ちなみにその病院は兄弟でやっており、くだんの発言をしたのは兄のほうだが、弟はもっとひどかった。なんせ(おそらくは中間マージン欲しさに)とある葉酸サプリを勧めてきたのだが、そのときに、「こないだ胎盤剥離の人の手術したんだけど、その人がこれ(サプリ)飲んでなくて、飲んでたら助かってたのかなと思うとね……」などという畜生にも劣る発言を平然とした男だ。わたしはあまりの外道さに、「あーそうですか」と棒読みで答えるしかできなかった。そんなにカネが欲しいか。人の命を引き合いに出してまで?ああいうふうになったら、医者だろうが官僚だろうがお終いだろうと思う。毎回不快さで泣いたり荒れたりしていたが、もう転院するので清々する。

そんなことどもも含めて、とにかくひまではなくなった。快も不快もひっくるめて、ともかく。やることやって、早くのんびりしたいもんだ、といまは思う。そのときがいつ来るのかは、まったくわからないけども。

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