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三宅支庁に至る行政の歴史~昭和37年三宅支庁管内産業経済概要から~

 三宅支庁の歴史、三宅島および御蔵島の行政管轄の変遷について、私は殆ど無知でしたが、昭和37年8月発行の「三宅支庁管内産業経済概要」(東京都三宅支庁産業課)にそのことが書き記されていました。三宅島の行政史について半世紀以上前に簡潔にまとめられた大変貴重で勉強になる文章でしたので、原文のままご紹介します。(一部注釈・画像を挿入)

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~「三宅支庁管内産業経済概要」(東京都三宅支庁産業課、昭和37年8月)から引用~

 伊豆七島中の三宅島及び御蔵島は東京都三宅支庁の所管区域となっている。
 御蔵島には6000年、三宅島には2000年から1500年以前に住民があったと推定されている。
 三宅島の遺物を覆っている火山噴出物の層は、全島至る所の断面にこの一環を見るので、或る時代全島民を覆滅させる程の大噴火があり、此等先住民は滅亡したのではあるまいかと考えられている。前述の住民及びその後の住民が、何時、何処から、何故に、如何なる経路によって島に移住したかは科学的に結論を与えられていない。
 史伝によると、伊豆七島は、大国主命が開いたと伝えられている。その後平安朝末期にいたり、伊豆狩野氏の領土となった模様である。当時の状態はつまびらかにされていない。

伊豆狩野氏
平安末期、伊豆半島および大島など伊豆七島を領地とした豪族。伊東氏がこの時代狩野氏を名乗った。

 鎌倉時代伊豆諸島は関東分国の一つとして幕府直轄の地となり、室町時代は、関東管領の支配下となって、戦国時代においては、大体北条氏に統一された。
 慶長9年(1604)徳川家康の関東入国以来は幕府の天領(直轄地)として統治したが、寛文9年(1669)より、伊豆韮山代官の管轄となる。手代若しくは、手代下役がおかれ支配したもののようである。その後は手代下役と地役人の会所(陣屋)を作り、島務を統轄した。
 韮山代官所(にらやまだいかん) 江戸時代東国の幕府直轄領を支配するために設置された役所。代官は、夏は江戸、冬は韮山に常駐。韮山は現在の静岡県伊豆半島の付け根のあたり。

韮山代官所(にらやまだいかんしょ)
江戸時代東国の幕府直轄領を支配するために設置された役所。代官は、夏は江戸、冬は韮山に常駐。韮山は現在の静岡県伊豆半島の付け根のあたり。

 御蔵島は、三宅島の属島とされていたが、享保14年(1729)7月三宅島から、行政分離した。

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現在の三宅島から御蔵島を望む

 明治維新による廃藩置県にともなって、明治2年韮山県の所管となり、同4年足柄県、同9年静岡県と点々編入され、明治11年1月11日現在の東京都(当時東京府)に編入今日に至っている。
 明治14年(1881)伊豆七島制の制定により、地役人、名主、年寄等と旧役職名に復し公事が行われることとなった。
 大正9年(1920)島役所と廃して大島島庁に属し、三宅島出張所が設けられたが、大正14年(1920)郡制廃止に伴い大島々庁を廃して東京府大島支庁とし、三宅島に出張所が置かれ、大正15年4月より始めて各島に普通町村制が施行され、昭和18年4月1日三宅支庁設置、三宅島5ヶ村及び御蔵島村を所管、同年7月1日都制施行とともに、東京都三宅支庁となる。

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昭和27版島勢要覧(東京都三宅支庁)の表紙画

 昭和21年1月29日連合国最高司令部よりの覚書により、大島、三宅、八丈各支庁管内の島々は行政分離され、同22年3月*解除されたが、過渡的に日本政府の行政機関の存続が認められたので、特記するような混乱はなかった。
*原文の「同22年3月」は誤植。正しくは「同(昭和)21年3月」。

連合国最高司令部(GHQ)覚書
昭和21年(1946)1月、日本領域から除外される地域(日本政府が行政権を行使できない領域)として、小笠原や千島列島と並んで伊豆諸島も列記され、伊豆諸島が日本政府より分離。連合国総司令部の施政下に移行するまでの一時的なものとして、日本政府の行政が継続された。同3月に伊豆諸島の日本政府からの行政分離状態は解除。(参考:「伊豆大島独立構想と1946年暫定憲法」榎澤幸広, 名古屋学院大学論集社会科学篇,第49 巻 第4号 pp.125-150)

 昭和21年10月1日神着村、伊豆村、伊ケ谷村が合併、三宅村が設置され、同31年、三宅村、阿古村、坪田村が合併し、新たに三宅村が発足した。 

~ここまで原文~

 まずこの昭和20~30年代の管内概要や産業経済概要を見たときに感嘆したのが、すべて綺麗な手書きで書き記されていたことです。図表やグラフまでも。現代と隔絶した異世界感を覚えると同時にこの時代の方々に対する尊敬の念を抱かざるを得ませんでした。

 ここに書かれた歴史を見ると、伊豆諸島がいかに日本国内はもとよりGHQの動乱の中で翻弄されてきたのかを伺い知ることができます。そんな時の統治者達の政(まつりごと)に巻き込まれながらも逞しく島を発展させてきた島民の魂にもまた畏敬の念を抱きました。
 我々一同そういった思いを胸に、今後も島の発展に寄与していきたいと思います。

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昭和37年三宅支庁管内産業経済概要一部抜粋

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