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短編小説「罪と罰」

男は二人の鬼に連れられ、暗い廊下を歩かされた。
その先に立ちはだかるのは、巨大な閻魔の影。
赤々と燃える瞳が彼を見下ろし、恐怖と緊張が男の心を締め付ける。

「丸山行雄だな?」と閻魔が低く尋ねた。

行雄は静かに頷いた。
閻魔は重い帳面を広げ、そのページと行雄の顔を交互に見比べる。
帳面には、行雄が病で現世を去るまでの72年の生涯が記されている。

行雄は若い頃から、公務員として堅実に働いてきた。
真面目で律儀な性格は周囲からも評価されていた。
彼には妻の陽子がいた。
二人は近所でも職場でも「おしどり夫婦」と称され、その幸せな姿は羨望の的だった。
行雄もまた、陽子への深い愛情を抱き続けていた。
しかしその思いも虚しく、陽子は先立ってしまった。
彼の願いはただ一つ、もう一度生まれ変わり、陽子と一緒になりたい。
ただ、それだけだった。

閻魔が厳しい目つきで行雄を見据えた。

行雄は震える声で言った。「陽子に会わせてください」

閻魔の目が一瞬光り、冷たい声が響いた。「おかしいな。お前の妻は会いたくないと言っているぞ」

その言葉に行雄は驚愕した。「なぜですか?」

胸の奥から湧き上がる記憶が、彼の心を鋭く刺す。
一度だけ、陽子を裏切った夜があったのだ。

「私はずっと真面目に生きてた。たった一夜の過ちなんです!」
行雄は必死に弁解する。

閻魔は厳しい表情で答えた。「一夜の裏切りを千夜に感じる者もいるのだ。彼女はその傷から逃れるために、もう人間になど生まれ変わりたくないとさえ言っている」

行雄は絶望に打ちひしがれて、その場に崩れ落ちた。
陽子の笑顔が脳裏に浮かび、涙が頬を伝う。

「どうだろうか?」閻魔は続けた。
「もし彼女の記憶を消してやるのであれば、彼女は苦しみから解放される。しかしその代償に、思い出だけでなくお前という存在そのものが彼女から抹消される」

行雄の胸に、絶望と苦悩が渦巻く。
陽子の笑顔、子供たちと共に過ごした幸せな日々が頭を駆け巡る。
その一方で、彼の心の中に沈殿する裏切りの記憶が鋭い刃となって胸を刺した。
何度も何度も、自分に問いかける。
私たち夫婦の全てを、なかったことにするだなんて…。
だが、こうしている今も陽子は苦しんでいる。
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
全ての感情を押し殺し、決断の瞬間が訪れた。
行雄は声を絞り出すように答えた。

「私との記憶を消してあげてください…」

閻魔は満足げに頷き、鬼たちに命じた。「連れていけ」

二人の鬼は行雄を再び連れ、闇の中へと消えていった。
その暗闇の中で、行雄は陽子の幸せを祈り続けた。

その祈りが彼の唯一の救いであり、彼自身の贖罪の形であったのだ。

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